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このWEBサイトは生駒聖書学院創立者であるレオナード・クート師の当時の資料を保存、共有しています。聖書の学びの助けになれば幸いです。

日本伝道50年(昭和四十六年二月)

慈父の厳励(栄 義之)

(2023-06-03)

神の言をあなた指導者たちのことをいつも思い起しなさい。ヘブル十三の七

昭和三十六年十一月、学生の間で学院の授業の改革を要求する声が大きく広がり始めた。ある朝の礼拝時、講壇が終るとクート先生は、「今日から授業はありません。あなたがたは好きなようにしなさい。唯食事だけは用意します。」と宣言した。私はその主謀者の一人だったので、クード先生は私の名前を指摘した。

私はその処置は厳しすぎると思った。当然の要求なのに、一方的だと大いに腹を立て、複雑な気持で室へ引き上げた。しかし聖書を読んでも頭に入らず、かと言ってクート先生は私には会って下さらず、しかたなしに山へ登った。

祈る気にはなれない。悔い改めとんでもない。私の言っていることは当然だ。いろんなことを思いめぐらしながら落葉の上にひっくり返って流れる雲を見つめていた。

その時、私はクート師との出会いを思い出した。昭和三十四年三月二十七日、聖書学院に入学すべく召命感に燃えて上阪した私は、その夜、大阪救霊会館、クート先生と初めてお会いしたのだ。先生は大きな暖い手で力強く握手をして下さり「よく来ましただ」と一言。私は嬉しかった。クート先生の愛と情熱を全身で受け止めたような気がした。

学院入学后は、先生によって聖書は生ける神のみ言葉であることをあらゆる機会に教えられ示された。特にその旧約聖書の講義は素晴らしかった。創世記からサムエル記まで三年間に渡ってみっちりと解き明かして下さった。実にクート先生は聖書の人であったと確信をもって言うことが出来る。全ての情熱の源泉は聖書を信じお言葉通りに生きた所から来ていると私は信じている。

聖書に書いてあることは誰がなんと言おうと信じてその通り実行された。聖書そのまゝの体験を自分のものとされるまでは決して退かなかった姿に感服する。

特に聖霊のバプテスマを日本で最初に体験したのは先生とその教会である。 使徒行伝を繰直し繰直し読む内に異言の伴う聖霊のバプテスマを信じついにそれを自分の体験とされた。クート先生は周囲の牧師や宣教師からキツネつきだと嘲笑されながらも決して退かなかった。

関東大震災后無一物の中から聖書の無から有を呼び出される神を信じて、生駒聖書学院を建て、日々祈りつゝ信仰によって日ごとの糧を備れつゝ日本とペンテコステのため、身を粉にして労し続けられたのも聖書を信ずる信仰の故である。

戦時中はやむなく米国に渡り、日本のスパイだと迫害されつゝ万国聖書学院を建てられ前進に前進を続けられた。帰日後も韓国に聖書学院を、そして聖書を神の言葉と信じて、聖霊に満たされ伝 道者を産み出すために台湾へフイリッピンへとその幻は拡がり続けるのだった。

流れる雲の如く、私の悩理に先生の生涯がその教えが浮んでは消え、消えては浮んだ。私が聖霊を受けた時、共に喜んで下さり励まして下さったこと、若く貧しかった私の着る物のことまで心配して下さったこと、学院の三年間を思うにつけ、くやしいけれど山の中で一人涙した。

その偉大な神の人が、今自分の孫のような若輩のために、その働きを中止されると宣言されているのだ。私はすまなく思った。申訳けなかった。 それ以上に神に対して申訳けなく高慢を示され、 落葉の上で落涙しつい、悔い改めの祈りを捧げた。

感謝なことに学院は四日后に再開され、私は寛大な先生の愛により赦され、学び続けることが出来た。
卒業后、クート先生は私に取って良き信仰の師父であると同時にやさしき慈父であり続けて下さった。私は無理さまと言われ、厳しいと聞いていた神の人のやさしさ、深い思いやりに今も深く感 謝している。

私の将来のこと、伝道のこと、結婚のことから住む家のことまで実に愛をもって配慮 された先生に他の人にない暖さを感ずる。 病床に先生を見舞った時にも、自分の体のことより、私の伝道のことや将来のことまでも深く心配して下さり、励まして下さったクート先生に、キリスト の形成った姿を見た思いがした。

短い先生との交りではあったが、クート先生の最も良い所を最も多く見ることを赦して下さった 神に心から感謝する。

彼は死んだが、信仰によって今も語っている。ヘブル11.4

富雄キリスト教会牧師

 

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