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日本伝道50年(昭和四十六年二月)

クート先生、ありがとうございました(奈良崎 克美)

(2023-06-03)

霊に於いて、今私があるのはと申しましょうか。今こうして主にあるものとされているのは、ひとえにクート先生による事とほんとに思います。昭和三十年花園の広場にはられた天幕伝道会のクート先生の説教により主に結びつけられて以後ずっとお世話になりっぱなし、御在世中に何ら報ゆる事なく、しかしクート先生が在世中に報われた人なんておおよそなかったのじゃないだろうか。

クート先生とはそういう人だったのだ。旧約の予言者的な、又使徒的な働き、生涯が神の御旨であったのだ。我々はクート先生より受けた所に堅く立って、 主の栄光をあらわしての後、報いる者と 何としてもならなければならないと心底にたゝきこんでいる。

しかし、クート先生は人間の知恵でなく、 主の霊の臨在、働きを真に求められた方であった。メソジストの信仰にあきたらずペンテコステの信仰に真のキリストを見出され、それを追求し続けら れたお方だった。しかし日本人は、余りにもほんとうの意味での霊的でなかった為に、又そのようなふんいきの見本がなかった為に、未だに霊の高嶺である聖霊の完全に支配される聖書の賜物の働く集会に程遠い集会しかできていない。

クート先生を思う度に我々が真にうえ渇いてそれを主より 受けなければならない。

又、我々はクート先生の在世中には、その不遜なといおうかあわれみ深くない態度に大いにつまずき、さばいたものだが、今考えるとあゝでなければならなかったのだと思う。

崩れゆこうとする建物を勇敢にも一人で支え続けている人、それは或いは悲壮でもあるクート先生の姿を思う度に、ほんとうに申し分けなく涙がこぼれ、それ故に又この様なお方に生み出され、又その信仰のあとつぎとされている我々の恵みを誇らざるを得ない。

稲沢福音教会 牧師

 

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