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このWEBサイトは生駒聖書学院創立者であるレオナード・クート師の当時の資料を保存、共有しています。聖書の学びの助けになれば幸いです。

日本伝道50年(昭和四十六年二月)

信仰の巨人と伝道の思い出(北村 棟秋)

(2023-06-03)

ハレルヤ聖名を讃美します今度、恩師クート先生の追憶集を!と云うことで不肖私も証詞の一人 として追憶集に投稿出来る幸福を感謝します。私は或時、京都三条河原でクート先生熱意の天幕大 伝道会が開かれた事を覚えて居ります。私も信者の一人として先生の御用の為に大工さんの手伝いをさせてもらいました。何枚位の立看板がお入用ですかとお尋ねした所が百枚は必要だとの事でした。ホウさすが伝道一途に戦い抜かれた先生だけあると、其スケールの大きさに驚きました。

近くの材木屋に杉板と寸角を注文し、鋸やハンマーでトントン作り六、七十枚は出来たと記憶して居ります。そして出来上った案内の立看板をトムソン先生の車で京都市内の要所要所に立て廻ったものでした。
集会は一週間位かと思われましたが、毎夜の伝道会に同志社大学の若い学生さんや多くの市内の方々が救われ喜びの毎夜でした。
夕刻ともなれば路傍伝道の群の一員として太鼓を叩き案内のプラカードをかつぎ、 アコーデオンの音に”たゞ信ぜよ!!”と歌いながら参加しました。

或る日の昼休みに、ぶらりと近所の古本屋にはいり見当ったのが日頃から求めていた分厚い一冊の聖書大辞典でした。この辞典さえあれば人生のどんな問題も創世記から黙示録に至る迄あらゆる 難解も一目瞭然に判ると思い、また中味もほとんど新品に近く値段も二千円でしかも五百円の割引となっていて踊らんばかりの喜びようで、早速金を用意して翌日買う決心して友人と雑談をしてはしゃいでいました。それを何処で聞いて居られたかクート先生は大渇一声”駄目だよ、そんな辞典なんかに頼るような薄っぺらな信仰では!” 何故ですか?と反問したところ先生は巡々とさとされ聖書は神の感動に因って書れたものであり、其れを解釈するのが世界の学者、即ち人間である。神は全智全能で人間は間違い易い不完全な者であるから祈って読むのが一番正しいとのことでした。そうだ同じ信仰に生き抜くからには先生の様な真理の聖言に命がけの忠実な歩みでなければならない、と堅く心に誓いました。

このクート先生の愛の一言に而しにがにがしくも、厳しかった、なつかしき当時を覚えて心密かに今は感謝してる者でご座居ます。
それ以来、辞典の必要も感ぜず、年間聖書通読表により祈って拝読して居ります。
たまたま救霊会館や其他の教会で先生の御説教に耳を傾けて居りましたが、米国や日本での苦難 の伝道生活五十年も十年一日の如く日本語の片言交りでテーブルを叩きながら、”皆様よ”と熱心 な話で、其の熱心さに心打れて私も不信仰と高慢なる罪だらけの人生から救れて喜ばしい人生の第 一歩のスタートを始めました。以来往時をなつかしみつゝ故クート先生の追憶を辿りながら強く雄々しくクリスチャンとして生き抜かねばならないと決心しております。 そうして毎週月曜日は僕に 与えられし十字架と信じて祈禱集会を責任させられ感謝でご座居ます。

「誰でもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。」(マタイ十六、二十四)
先生の面影が愚生の脳を去来するものは”限り無き生命でした! ありし日の先生の追想が甦る まゝに感慨無量でこの追憶集に一筆を惜まぬ者であります。

ビル管理人 大阪救霊会館

 

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