第一課 ツロ市
これはエゼキエル書26章27節?28節に記されてあります。
このツロ市の滅亡の予定の、或る内容を、簡単に申し述べます。
26章の始めに、ネブカデネザルという王が、ツロしを攻め立てる事の、神の預言が記されています。(7節)
この課において、12?14節、本当の意味深い内容があるのです。
12節には「おまえの石や、木や、ちりまでも、水の中に投げ込まれる。」とありますが、この預言は実現しました。
この預言の240年後において、ツロ市はこの王に亡ぼされたのです。
市民は、海に逃れた方が安全だと思って、海岸から半マイル程ある島に疎開しました。
アレキサン大王は、この海上に提道を造って歩行して到らせようと考えた。
そこで、その築提材料として塔を壊し、石や木材は実際に水没したのです。
12節にある内容は
「城壁はくつがえされ、住み心地の良い家は取り壊さ、石や、木や、ちりまでも、水の中に投げ込まれる。」
に注意して下さい、アレキサン大王は数年後に提道を築き、全てその通りにしました。
そして今はツロ市は、どうなっているだろうか、26章14節に預言された党利になっています。
「私はおまえを裸岩とする。おまえは網を引く場所となり、二度と建て直されない。主であるわたしが語ったからだ。」
預言と言うものは本当に素晴らしいものですね、わたしは今日のツロ市へ行ってみたい。
そこには只魚網を砂浜に干してあるだけで、何もない。
私は私の聖書と、エゼキエル27章を開いて、「神をほめたたえよ」と叫ぶことでしょう。
第2課 シドン市の預言 (エゼキエル28章22?23)
ツロ市に就ての神の預言は、永遠に滅亡させることだったが、このシドン市のことに関しては大部分は減脚させるが幾分は残して置くことだった。
「神である主はこう仰せられる。シドンよ。わたしはおまえに立ち向かい、おまえのうちでわたしの栄光を現す。
わたしがシドンにさばきを下し、わたしの聖なることをしめすとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。
わたしはそこに疫病を送り込む。そのちまたには血が流れ、四方から攻める剣のため、刺し殺された者がその中に倒れる。
このとき、彼らはわたしが主であることを知ろう」。
シドンはえき病が発生し、血はその街を流れた程だったが、滅亡はしなかった。
今日のシドン市は、人工1万程の小さい街で、アルタザクセスの下に謀叛したが、暫くし敵のてにうらぎられた。
全く望みを失ってしまったとき、4万の市民は、ペルシャの報復にあうよりはと自殺してしまった。
ツロとシドン市は地理的には接近していたが、その運命は、預言の相違によって、各々違っていた。
第3課 サマリヤ市の預言 (ミカ書1章6節)
「わたしはサマリヤを野原の廃墟ちし、ぶどうを植える畑とする。わたしはその石を谷に投げ入れ、その基をあばく。」
この預言の成就は、歴史に明らかな処で、紀元前109年でジョン・ヒルカンスがこの市を占領し破壊した。
50年後再建され、ヘロデ大王によって復興されたが、第7世紀の初め頃マホメットによって占領され、後にされた。
今日のサマリヤは、全く預言の通りで、石塚となっている。
第4課 カペナウムの預言 (マタイ11章23節)
「カペナウム。どうしておまえが天にあげられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。
おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのでだったら、ソドムは今日まで残っていたことだろう。」
第13世紀のおわりにプロカラダスは、「この町はまことに小さな漁村となって、みすぼらしい漁夫の小屋が7戸あるだけだ」と書いている。
期限62年以後は、この町の元の敷地はまったくなくなってしまった。
第5課 エルサレムの預言 ミカ書3章12節 エレミヤ26章18節
「それゆえ、シオンは、あなたがたのために、畑のように耕され、この宮の山は森の丘となる。」(ミカ)
「シオンは畑のように耕され、エルサレムは廃墟となり、この宮の山は森の丘となる。」(エレミヤ)
エルサレムしは、四つの丘の上に立っている。即ちシオン、モリヤ、アクラとゼベタの岡の上である。
エルサレムひ関する預言には、三つの象徴があります。
1)シオンは畑として耕されと預言されたが、今日全くその通りとなった。
2)この家のやまは、林となる。モリヤの山の今日は、完全に林となってしっまっている。
3)エルサレムは、廃墟となる。今日ガラクタが山と積んでいる。
預言というものは、キリストの福音の精神そのもの、キリストご自身とも言えるものです。
キリストの御生涯、またその使命については、ずっと前から預言されていました。
幾多の預言が神の子ど等として我々を取り扱い、我々に預言されていました。
そればかりではありません、キリスト信者は、聖霊の賜物であるところの、預言となれるのです。
コリント前書12章10節又は8節を見てください。教会には預言というものが置かれていたことがわかります。
私達には、そこでほんとうの預言者と偽の預言、真の預言、偽の預言を見分ける必要も起こるのです。
その見分けは簡単で、次の如くです。
真実の予言者か 偽物か
真の予言者はキリストを大いし、偽物は自己を大いに吹聴する物なのです。
信者はそれで直ぐ解ります。
自己を大にして、自己を光栄あらしめるように説く者は、預言者だと誇張していても、それは違います。
聖書には偽りの預言者のことが、沢山出ています。
次の箇所を御覧になって研究すると、聖書の勉強に大変ためにまります。
ゼデキヤの預言、列王記22章11節 エレミヤ29章21節
バルイエス、使徒13章6節?
偽予言者は、申命記に排斥されています。申命記13章、18章20
イザヤ9章15 エレミヤ書6章13 14章13 23章9
エゼキエル13章3 14章9 マタイ7章15 24章11
ペテロ?2章1 ヨハネ第1の手紙4章1
次の如く、ある試しによって偽預言は見分けられる。
(イ)申命記13章1?2神の言葉に反対なことを、偽者が我々にさせようとする時。
(ロ)申命記18章20?22偽予言者の預言が成就しない時
(ハ)エレミヤ記14章15、22章16預言が平和と祝福を伝えたが、その反対に険難、災難が相次いで起こって居る、
この預言はかみからのことばではなかった。
大体それで、真の預言は、第1に、預言が神のことばの精神に符号しているかどうか、実際のによって証明される。
第2に預言が全く預言通りになるかの点に於いて解る。
幾百の預言が、単にキリストが在世当時、手の生涯、主の働き、及びその使命の上に成就されました。
この幾百もの預言は隅から隅まで、こまかく成就されているのです。
そして、キリストが実に活ける神であって、世人と同じ肉体をとって現れ給うた方だと言うことが、
巨大な、拒むことの不可能な文献になっています。
旧約聖を書のキリスト、救い主の仕事と生活を対照し、その預言の成就を学ぶことは、
若い研究生にとって、どんなにか益になる事でしょう。
今までの講義で、本当の預言とはどんなものか、旧約中その顕著なものをあげました。
これに加えて、神の人類への啓示聖書は神の集篇に外ならないことを学びました。これ即ち、啓示です。
先週の講義で、偽預言というものが有り得ること、主も又多くの偽教師偽預言者の起こる事を言われた、と申しました。
また偽物と、本物の区別の仕方を研究しました。
本講義も終わりに近づいてきましたので、私は今、現代と真実の信者に関する、顕著な預言につい話します。
これは興味深い事で、この情けない時代に、私達を励まし私達の信仰を助けてくれるものです。
それは、かみが之等を言われたのであり、神は決して間違いのない方だからです。
私はこの預言を、次のように3つに分類します。
(1) まだ成就していない キリスト御自信に関する預言
(2) キリストの真実な信者に対する預言
(3) 不信な現代世界にたいする預言
之等の預言は、聖書に書かれていることを覚える必要があります。
多くの信者は、之等派聖書の一部だというのですが、之等には一時一句凡てが、そのままに成就えの道をたどっていて、
間もなく成就をみるものです。
本当に私達は、今驚くべき時代に住んでいるのです。
未完成の預言が、一つ一つその細部にわたるまで間もなく完成されるのです。
(一) キリスト御自信に対する預言
イ)再臨。ヨハネ一四章三節「わたしが行って、場所を備えたら、又来てあなたがたをわたしのもとに迎えます。」
イエスは、はっきりと言われた。だから必ず帰って来て下さるのです。
その時期が早そうだ、遅いようだ、それは問題ではない。再臨を預言されたその御言葉に、間違いはあり得ないのです。
再臨は研究するのに実に興味深い者で、詳細に使徒行伝1章9節?11節をご覧下さい。
主の再臨の模様はどの様か、11節の
「天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で」
と言う文字に注目して頂きたい。(マタイ24章3節?31節)
(二) 信者に対する預言
主のなさった預言の数、聖霊による預言は実に無数です。之等はクリスチャンの進歩に、大切な基礎となります。
イ) 祈祷に関して ルカ11章9節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさ
い。そうすれば見つかります。たたきなさい。そ
うすれば開かれます。」
ヨハネ15章7節
「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことば
があなたがたにとどまるなら、何でもあなたがた
のほしいものを求めなさい。そうすれば、あなた
がたのためにそれがかなえられます。」
ロ) 聖霊のバプテスマ 使徒2章38節?39節
「悔い改めなさい。そして、罪を赦して頂くために
イエス・キリストのなによってバプテスマを受けな
さい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょ
う。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子
共達、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち
私達の神である主がお召しになる人々に与えられて
いるからです。」
ハ)信者の奉仕と奉仕の力 使徒1章8節
しかし、聖霊があなた方の上に臨まれるとき、あな
たがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤ
とサマリヤの全土、および地の果てまで、わたしの
証人となります。」
ヨハネ14章12節
まことに、まことに、あなた方に告げます。わたし
を信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれ
よりも大きなわざを行います。わたしが父の御もと
に行くからです。」
(三) 不信なる現代 及び 世界に対する預言
イ)未信者の運命 マルコ一六章16節
信じて、バプテスマを受ける者は、救われます。し
かし、信じない者は罪に定められます。」
黙示21章8節
しかし、臆病者,不信仰の者、憎むべき者、人を殺
す者、不品行の、者魔術を行う者、偶像を拝む者、
すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄と
の燃える池の中にある。之が第2の死である。」
ロ)大いなる審判の日 ヘブル12章27節
この「もう一度」ということばは、決してゆりうご
かされないものが残るために、すべての造られた、
揺り動かされるものが取り除かれることを示してい
います。
ローマ14章10節
それなのに、何故、あなたは自分の兄弟を裁くので
すか。又自分の兄弟を侮るのですか。私達はみな神
のさばきの座に立つようになるのです。
之は、私の預言の原理に関する終講です。聖書はその全巻が預言であり
神の霊感によってかかれたものであることを学びました。
(2-テモテ3章16節を暗記して下さい。預言に関する大切な言葉です。)
私は繰り返し申し上げたい、預言は神の能力の著しい啓示です。
モーセを例に挙げると、彼は世にも珍しい、温良の君子だったのですが神に撰まれると世界創造史に筆を下ろし
自分の生まれた数千万年前の出来事をつぶさに物語ったのです。
勿論無神論者や、不可知論者はこの説を一笑に附して「生まれない前のことが,如何にしてかけるか」と言うだろう。
然し事実はこれです。これが預言と言うものです。
即ち神が人の上に働いて、人間には全く知る方法もなく 研究しても解らない未来や、過去の出来事を知らせたり書かせたりするのです。
私達は、この講義で ある特定の都市が、罪悪に満たされて居るので、神がその都市の行く末に於いて預言されているのを学んだ。
預言者の口を以てそれらの都市の滅亡を、一部始終事細かに語って居られ、滅亡と言う大ざっぱな出来事が、
成就されたばかりでなく、その細かい一つ一つも、ことごとく預言通りに 実現を見たのです。
恰度、神様の言われた通りになっていることを学びました。
私達はまた、この講義で イエス・キリストの誕生 生涯 伝道に関する幾多の預言をまなびました。
之等は又 その片言隻語に到るまでが預言通り実現されました。その大切な幾つかに心を止めてみましょう。
これ等を暗記しておくと、あなたの信仰を笑う人々に対する、良い心の材料となって 未信心に打ち克ち
これを導く良い武器となります。
その重要な一つ それはイザヤ七章14節の預言です。
そこには「見よ 処女がみごもっている。そして男の子を産む」とあります。
この処女と言うのは若い婦人と言うばかりでなく、本当に処女という意味なのです。
この預言は字義通りに成就を見ました。
ちっともうたがいをさしはさむ余地もなく、次の通り新約聖書の章句の中にその預言の成就の次第が記されてるほどです。
マタイ1章22 ̄23節にこのすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
「見よ処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
天使が、処女マリヤの許に どんな風に現れてこのことを告げたかに先ず注意を払って下さい。
ルカ1章29 ̄31節、及び34?35節にも同じ記事があります。
またキリストが生まれることになっていた地名にも、預言がありました。
ミカ書5章2節におりまして、 マタイ2章1節に成就されております。
イエスの伝記には、他に多くの預言がなされてあり、実際に成就、実現をみましたが、
まだ実現を見ないものもありまして、それがいまに、どの様な結果を見るかということはまことに興味ある研究です。
私達はこの未完成の預言をよく知っておく必要があります。
毎日新聞記事の題目ばかり見ても私達のこの目の前で、神様がこの未完成の預言を完成しつつあるかが解るからです。
私達のような同じ人たちが、数百年前に、霊動によってその時代をみて、神の霊感を語ったのが預言だったのです。
また偽預言者と、偽預言のあることを付け加えたいと思います。
自分を偉大に見せようとする人達は、私達を真理から迷わせる人達が、それで、その言動が偽預言ですから、これを見分けなければなりません。