HOME

クート師説教集

ルツ記

(2007-01-24)

第1課

ルツ記は非常に魅力のある興味深い書です。
この書はイスラエル人の歴史のなかにあって、はっきりとした、霊的な適用を以て、現れた愛の物語です。
この書は4章だけの短いものですが、各章とも各信者に、特殊なメッセージを持っています。
この4章だけである記事のメッセージを体得し、理解するためには、此の記事を何辺もくり返して読むべきです。
こうして、此の書に依って与えられた神の御主旨を、悟ることが出来ると思います。
  
聖書中女性の名称を持つ二つの書

ルツ記   異邦人の女でヘブル人と結婚する。
エステル記 ユダヤ人の女で異邦人と結婚する。

これらは、アブラハムの子孫によって、
異邦人が祝福されるという二つのしるしです。(創世記12章3節)

此の書の通語
聖書の各書には、それぞれの通語がある。ルツ記の通語は「おちつく」落着
此の語について、1章9節、3章1節を見てください。
此の記事が教える全部が、「おちつく」と言う意味を中心としております。

記事の分解
(1)おちつきが失われた。  1章1?5節
(2)おちつきを渇望する。  ?章6?22節
(3)おちつきを深捜した。  2章?3章
(4)おちつきは保証された。 4章

此の物語は飢饉の時に、神の祝福を表す。
ベツレヘムを離れて、モアブ という国に行って、住んだことから初まります。
クリスチヤンが、活気のない時、又は、人生の難問題や他の人の偽善的なことに気がついて、
心のおちつきである、即ち、主の賛美から離れて、落ち着きと祝福の場所、又は、
主に依って認められない場所を、物色するようなことがなんと多い事でしょう。
故に、みんな祝福の場所を棄てるのです。

物語は一人の夫が苦難に苦難を重ねてた結果、死に二人の子息も死に、
妻のナオミが未亡人として残され、全部を失ってモアブの地におります。これは神なき国の型です。

未亡人善き訪れを聞く

飢饉は去り、彼女の民は、再び祝福されているという訪れを耳にして、帰郷を思い立つた。
また二人の息子の妻である嫁も、一緒に行くことを願った。
ナオミは、彼女等が思い止まることを極力進めたのですが、その内の一人はどんな代価を払っても同行することを決意した。

これが、ルツでした。
そしてルツはボアズと結婚しました。此のボアズは、ダビデ王の3代前の父で、
イスラエルのうちにありました、最も偉大な王で、ダビデはイエス・キリストの型で
この系図にイエス・キリストは御生まれになりました。
次の教材のために、「1章」を繰り返し読み、特に次の事柄に注意して下さい。

(1) 祝福の所を離れる間違った行為、飢饉の時のベツレヘム、又は
    間違った感じ。
(2) ナオミが、凡てを失っていた時に、善き訪れを耳にした。現在  
    もこの事柄が現実ではないでしょうか(1章6?22節を注
    意して読む)
(3) ルツの、強固な決心と、決断がこの章の16節?18節にある
  
第2課

前の講義に於いて、ルツ記の主なる思想は、◇落付◇という首題にあてはまることを申し上げてご注意を願いました。
英語では、☆休息☆というのですが、日本語には落ち着くという意味が付加されています。

ルツ記は4つに分類されます。
その第一類は(落付き)が放棄されたことであります。
この物語を理解するのには、幾度も幾度も繰り返し第一章をお読みになり、
それから最初の5節を良くお考えになってみることです。

第一類は自ら次の如く分割されます。

イ エリメレクは祝福の地、すなわちベツレヘム、ユダに住んでいた。
ロ 飢饉がやってきた。(たぶん士師記6章3?4の飢饉のことならん)
ハ エリメレクは、飢饉の時に移住するという誤りをしでかした。
ニ その結果、彼は死亡した。妻は寡婦となり、2児は外国人を妻とした。
ホ 神と祝福の地から離れ、不幸と困難の中を歩かなければならなかった。

この第一類に於いては、具体的に堕落を教えるものであり、従って次の2つの題目のもとに講義を取り扱いたいと存じます。

1 堕落の事実
2 堕落の愚

注意深く、詳細に研究いたしましょう 。

イ 試練の時の態度。信者の生活には必ず試練が参ります。
これを避けることは出来ない。試練の経験のない信者というものはあり得ないのです。
試練をまだ受けない信者の生活は、問題ばかり起こるものです。
従って大切なのは、問題でなくて、問題に対する態度、試練に対する態度です。

この講義の試練は、 ☆この土地に飢饉ありき☆ ということにあるのです。
聖書には飢饉のことが多く記されている。13回も飢饉の記録があります。
次の引照句を読んでみてください。

創世記12:10、26:1、41:54
ルツ記1:1 
サムエル2 21:1 
王上18:2
王下4:38 7:4 25:3
ネヘミヤ5:3
エレミヤ14:1
ルカ15:14
使徒行伝11:28

ロ 飢饉は神の民を訓練するためだったのです。
神は私共を強かれと切に望まれるので、私共に試練を与えられるのだが、
私共はそのたびにエジプトに逃れたり、世間並みに堕落してしまうのです。
私達は、神の恵みと祝福を求めて、罪の告白と、
行状を改めることをせずに世間の肉的資源をあさり歩くことは間違いなのです。

ハ 飢饉の時の堕落の例……アブラム創12:10 イサク26:1 と同日の講義。

ニ 飢饉の時の神の給与、王上8:38 もし一人かあるいは汝の民イスラエル皆各々己の心の災いを知りて、
この家に向いて手をのべなば、その人いかなる祈りいかなる願いをなすとも。
とあって、神は飢饉の時に死からその民を救いたもうたのであります。
ヨブ5:20飢饉の時には、汝を救いて死を免れしめ。詩33:19には死より救い、
飢饉の時にも世に永らえしめん為なりとあります。
次に堕落の愚かさ加減を調べてみましょう。

イ 損失 満ちたりしいでたち、むなしくなって細る。
1章21節ナオミは夫と2人のこどもをつれてでたのに全部失って帰ってきました。

ロ 寂寞、孤独、  夫と二人の子供に残された。1章5節 神を知っていたひとが堕落し、
自ら神を離れ、神を信ずる友人達から離れ去ることは、どんなにか淋しいことでしょう。

第3課
ここで 私達は驚くべき程のルツの決心を発見するのです。
これは今日信者や信仰に入る方々の良い手本となるものであって、1章16?17節にルツは言った。

「あなたを捨て、あなたから別れて帰るように、私にしむけないで下さい。あなたの行かれる所へ私も行き、
あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
あなたの死なれるところで私は死に、そこに葬られたいのです。
もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にもわたしを罰してくださるように。」

多分、誰か信仰に入ろうとする方や信仰に向かって、なぜそのような堅い決心をしなければならないのかと聞かれるでしょう。
それは良い質問です。
人間と言うものは 誰でも罪えの傾向を持ち義に背く性質を持っており時の潮流が、
悪に向かって流れ始めると、人間は皆 自分勝手に罪えの傾向にそって流れ 神の義に逆流していくものです。
そして 正しいこと、神の国のことは、この潮時にはできないものなのです。
ルツの決心を次のように分類しましょう。

(1)目的 「私にしむけないでください」私達の決心に、はっきりした目的がないと その決心には力がはいらないものです。

(2)進歩 「あなたの行かれる所へ私も行き」ここに私達ははっきりした進歩の跡を見るのです。
即ち前進するのです。信者の霊的生活は、前進か 後退か どちらかであって、
じっと立ち止まることは出来ないのです。

(3)参加「あなたの住まれる所に私も住みます」この処に私達は同信の友との同行を見るのです。
信者の嬉しい祝福の一つは私達の道に、同信の友の道連れを見出すことで 
相共に世から離れてキリストを魂の奥の院に あこがれ続けて旅をかさねているものなのです。

(4)原理「あなたの民は私の民」この言葉は私はどうしようか、
というのではなく、神を信ずる人々と肩を並べ、一緒に行こうとすることです。
このことは 自分の親戚や近親よりも神を信仰する人々から、友情や援助を多く得られることをいったもので
神の霊によって再生したものは神の家族の一員として生まれ変わっていることの証しです。

(5)敬虔「あなたの神は私の神」信者が私達の創造者は また私達の救い主であることに
気が付くと、神は一つの標準をお持ちになって居ることに目が覚めて気がつくものです。
そして神は私達の日常生活に於いて毎日の標準に従って歩めとの神の御要求があることにも気づき
この御要求応ずる 生き方をするものです。

(6)平和「あなたの死なれる所で私は死に」これは、
神に奉仕して一生を送り疲れた体を横たえ 神のみそばに
静かに休むと言うその休息を言って居るのです。

(7)預言「そこに葬られたい」これは 神の信者達は この世を去る時には
当然のことをするものだと確信を示すものです。
世間に良くあるように ルツにもモアブに帰って行けという、反対の声が随分あったようにおもわれる。
信者には皆この世間の反対があるのです。1章18節にはなんという驚くべき立派な嫁であったかお示しています。
「ナオミは、ルツが自分といっしょに行こうと堅く決心しているのを見ると、もうそれ以上は何も言わなかった」
これは言葉を代えると、私達に堅い決心がありさえすれば、反対の声は止み、
私達の旅を進め得るということです。

第四課 ルツ記2章 ルツの奉仕

2章に於いては何となく特筆大書すべきことが、ルツについて書かれています。
1章に於いては まことの求道者が世間と地上の雑事と、迷信とから離れて
あらゆる反対にもかかわらずベツレヘムえの旅に出るつよい決心のほどが示されておます。
ルツは、神は変わったことをなさった。
神は信者達の間を訪れている、驚くべき不思議な働きが、進行しているという風潮をきいていたからです。

ルツはその伝え聞いたことを信じ 信仰の旅を続けました。
信者達の間にはいりましたベツレヘムに着いたのです。不思議な導きをうけて
まことの信者らしく恵みに答え 奉仕をして参りました。
奉仕をすると言う境地に入った、それは神の信者の心に異変があったという証しです。
この章のことばを少し眺めて見ましょう・・・次のように。

2節モアブの女ルツはナオミに言った。
「どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとにつ行って落ち穂を拾い集めたいのです。」
これは真の求道者の叫びです。
「行かせて下さい」
「奉仕させて下さい」
「私に親切にして下さった方に何かして差し上げさして下さい」 
7節にも同じ言葉があります。
「どうぞ、刈る人たちのあとについて、束の間で、落ち穂を拾い集めさせてください。」と

ボアズ

神のなさることは不思議です。
誰の畑とも知らず、ルツは奉仕をし 然もいと忠実に努めたのです。
この婦人は無教養な外国の女で、このごろエルサレムに来たばかりだったのですが、
真の求道者である特徴を持っていました。それで神の目的が この婦人の生活に歴然と働いて居たのです。
ルツはボアズトいう偉い人の畑で働いていることが解った。この人は主イエス・キリストの型を持っていました。
次の数々は興味のある句節です。

イ)彼は偉大な有力者だった。2章1節
ロ)彼は同情に富む人だった。2章16節
ハ)彼は考え深い雇い主だった。「雇い人を祝福した」2章4節

次の学課で、神の目的の達成と、ルツが遂に雇い主の花嫁となること、
ボアズがキリストの型であること、この物語は実際、真の求道者が信者となって、
キリストの花嫁なること、即ち教会はキリストの花嫁なることを講義しましょう。

第5課 3章?4章
イスラエルの長には、規則と原理があって、夫が死んで婦人が寡婦となると、
夫の一番近い親戚が夫の財産を買って、他の言葉で言うと、財産を贖ってやるこちになっていました。
やがてその手続きが進ちょくすると、その未亡人をも娶って、花嫁とするのです。
もし最近親が贖うことが出来ぬ場合は、贖えないことを証す式を行った後で、
次の近親がこれを贖うことになっていました。勿論花嫁もです。

第3章、第4章には、原文の「近親」と言うことばが、14回用いられています。
これは顕著なことで、14は7の2倍です。7は完全を意味し、14は二重の完全です。

最初の意味はルツです。
外国の偶像礼拝者が、いまは花嫁として平和と満足をかち得たのです。 
だがその次の祝福は、ルツは非常に重要な人物の花嫁となったことです。
その人は主イエス・キリストの型でした。

近親と言うことばは、原語でも英語でも、14回用いられて居るのですが、
日本語の聖書では三種の言葉に訳されて居ます。知人、贖い者及び親戚です。
この言葉に用いられている箇所は、研究者が3章、4章を調べ、その一つ一つに印をつけると、
近親者という意味を学ぶのに非常に為になります。下記の通りです。

2章1節・3節  3章2節・9節・12節(2回)13節(4回)
4章1節・6節・8節・14節

この物語に二人の近親、一人は最近親で、もう一人はその次に近い親戚ですが、
これは面白い問題です。これは信者が早かれ遅かれ、二名の親戚を有することになるので、
実に深い面白さがあり、また含蓄の多い教えとなります。
その一名を古い性質、他を主イエス・キリストと言うことができます。
ボアズが娶るべきルツに会った時、自分よりももっと近い、近親がルツにはあるのだといいました。 
いと近い近親者を見つけて、それは、古い性質の人間の典型であって

「私はルツを贖うことは出来ない、私はその婦人を贖えない」と叫んだ点に注意をとめて下さい。

面白い意味深長な点ではありませんか。4章6節にも注意して下さい。
これは古い性質であって、どんなに強い意志をもって正義を行わんとしていても、私達の生命を贖い、
神の聖なる標準に遇う嬉しさを、与えることは出来ないのです。
然し神に感謝を献げましょう。私達にはもう一人の近親者がおります。
私達と同じように、血と肉とをもって下さった主キリスト・イエスです。

私達と同じように、凡ての点で誘惑に遇い、凡ての罪の形に打ち克って、イエス自身の中に贖いを済ますことが出来
その購いを通して、私達はイエス・キリストの花嫁となれたのです。

3章3節に「あなたの体をあらって」とありますように、キリストの花嫁となるその一歩一歩気を、
つけて見ることは、また興味のあることです。
キリストの御血によって洗われた後でも、私達の利己主義や我が儘 から、
私達の心と精神を洗う必要があるのです。
身も洗って、それから着物を着 婚礼の支度をするのです。
賛美と謙遜の晴れ着ですよ。これだけではまだ足りません。私達は床にひれ伏すのです。
善行に於いてではなく、キリストの正義にのみにお頼りして、ひれ伏すのです。
そうしますと私達は、私達のボアズ、主キリスト・イエスの花嫁なのです。

このボアズとルツが、ダビデの祖父母であったことは、実に面白いことですね。
このダビデもまた、キリスト・イエスの型なのです。

← 1つ前の記事 | 1つ後の記事 →