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礼拝メッセージ

何のためにそれをしますか?

(2019-03-31)

 講師 東大阪エリムキリスト教会 牧師 竹腰明人師

   
 テーマ『何のために、それをしますか?』


聖書箇所=?サムエル17章8節ー54節 ?ヨハネ4章18節

 小学生の娘の授業参観に行きました時、教室の壁に『自問掃除』と張り出してある用紙を見つけました。
自問掃除とは、自分に問いかけながら掃除をしょうという事です。例えば、クラスメートが見落としている汚れを探して掃除することによって発見する力を身に着けたり、困っている子を助ける事により助ける力を身に着けようという取り組みでした。掃除の時間だから、仕方なく掃除をするのではなく何のために掃除をしているのか?と自問自答しつつ掃除をする事により、人として成長して行こうという先生の教えに感心しました。

*巨人ゴリアテの問いかけ(?サムエル17章8節)


  ある日、ペリシテ軍がイスラエルに攻め込んできました。そこで、迎え撃つイスラエル軍とペリシテ軍の両陣営が迎え合うことになりました。そして、、ペリシテの代表戦士ゴリアテが、一対一の戦いを申し込んできたのです。
(?サムエル17章8節、9節を読んで下さい。)何のために? 
(17章4ー7節を見ますとゴリアテの身長は2m80?という規格外の巨大さで、胸当ての重さが約60キロもあり、隙のない頑丈な武具に覆われていた事が分かります。また槍の穂先がやく7キロもあり、人並み外れた腕力の持ち主であったことも分かります。5キロのお米の袋より重たい穂先がついた槍を投げる事ができるのですから、その腕力の強さは測り知れません。そのような巨人ゴリアテからの挑発に、挑戦しようとする戦士は一人ももいませんでした。そのため、ゴリアテは40日間も、イスラエルの兵士たちを、愚弄し、馬鹿にし続けたのです。
 ゴリアテは『何のために、おまえらは戦場に出て来て、戦いの準備をしているのか?』と叫びました。
『何のために、ここに来たのか?』この言葉を聞いたイスラエルの兵士たちは、『何のために戦場に来ているのか?』といろいろ思いめぐらした事でしょう。


*兵士だから、仕方なく…
*敵の大将を討ち取って出世する為に…
*家族や国を守るために…
色んな思いがあったことでしょう。


*ここで一つ考えてみたいと思います。何のために礼拝に来ているのしょうか?。


日曜日だから……祝福を受け取るため……など、いろいろなり理由があるかと思いますが、礼拝は捧げるものですから、主イエス様の十字架に感謝を捧げる気持ちを常に忘れないようにしましょう。また、伝道する時なども、自分を愛する人だけに福音を伝えるのではなく、全ての人は主に愛されている者であり、全ての人を救いたいというイエス様の願いをくみ取り、誰にでもチャンスがあれば、福音を伝える者とされましょう。
*(第一コリント10章31節)こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、全て神の栄光を現すためにしなさい。


*コリントの教会は伝道熱心で成長していましたが、問題も多くあった様です。教会員が集まり、礼拝し、持ち寄り食事で、愛餐会をしているとき、我先に食事を済ませてしまう人達や、ぶどう酒を飲み過ぎて酔っぱらっている人達もいたようです。そして、小さなもめ事や争い事を起こり、クリスチャンとして恥ずべき行動をしてしていた人達もいた事がうかがえます。そのような所に未信者の方が来た時、そこに神さまの栄光を拝見する事ができるでしょうか? しかし、コリントの教会員が食事を分け合い、互いに愛し合い、楽しく会話をしているなら、そこにイエス様の良き香りが現れ『私もこの交わりに加えられ、主イエス様を信じて救われたい』と願う人が起こされることでしょう。
 もちろん、何をするにも、全て神の栄光を現すようにとありますので、教会生活に限らず、家庭での生活、職場での仕事、趣味やサークル活動などを通しても、主の御栄光を現すという目的で、そこに置かれ、そこに遣わされている事を覚え、あらゆる活動を通して、主の栄光を現す者とされていきましょう。


*挑戦者ダビデ


ペリシテ軍とイスラエル軍が向き合っている時、羊飼いであった少年ダビデが、お兄さんたちの安否を確認し、弁当を渡すためにやってきました。するといつものように巨人ゴリアテが現れて『お前らは、何のために、ここにいるのか!
俺と一対一で、勝負するやつはいないのか!もしも負けるような事があったら、おまえらの奴隷になってやるぞ』と
イスラエル軍を侮辱し、罵倒しに来たのです。
ダビデは、イスラエル軍の兵士たちが、戦意喪失し、シーンと静まりかえっているのを目の当たりにして、悔しさが心の底からこみ上げて来ました。そしてこのように言いました。


*(17章26節) ダビデは、そばに立っている人たちに言った。………『この無礼なペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。』ダビデにとっては、イスラエル軍が、罵倒されているのは、生ける神ご自身が罵倒されている事と同じでした。何故なら、この当時は、軍隊の力によって、その国の力を示す事が出来ると考えられていたからです。そこで、ダビデは『主の栄光のために!』という心で、巨人ゴリアテに挑戦していくのです。
                  

*この国ではイエス様はどのように思われているでしょうか?


 私は、クリスチャンになる前は、イエス様は十字架で死んでしまった可哀相な人。弱々しい人、また、キリスト教の教祖くらいにしか思っていませんでした。ですから、イエス教には、霊的な力もないし、人生の問題を解決する力、病をいやす力など、全くない弱々しい宗教だというイメージも持ち合わせていたのです。
 多くの日本人は、私と同じような考え方を持っているのかも知れません。ですから、大きな問題や悩みなどのぶち当たった時、霊的な力を求めて、新興宗教などに救いを求める人たちが多くいるのでしょう。
クリスチャンになった今は、それが、とても悔しいのです。なぜなら、イエス様は愛の神、力ある神であり、人生を造りかえる力ある方だと知ったからです。今は一人でも多くの人に、力ある神、救いの神であることを知ってもらいたいと思います。その為には、何をするにもとあるように、教会生活においても、家庭生活においても、どこにおいても世の光となり、主の栄光を現して行きたいと願っています。


*ダビデの挑戦


(17章32節)ダビデはサウルに言った。『あの男のために、、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。』33節)サウルはダビデに言った。『おまえは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。おまえはまだ若いし、あれは若いときから戦士だったのだから。』


17章37節)ダビデは言った。『獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。』サウルはダビデに言った。『行きなさい。主がおまえとともにいてくださるように』


 ダビデは、ゴリアテに挑戦する事をサウル王に伝えました。しかし、サウル王は、小さなダビデと巨人ゴリアテを見比べて、名もなき羊飼い少年ダビデが勝てるはずはないと結論づけました。そして、王の鎧や剣を貸し与えたのです。
しかし、ダビデにとってはそれは、不慣れなものでありましたので、それらを脱ぎ捨てました。
 ダビデは、目に見える現実だけにとらわれず、目に見えない神様が共におられる事を信じていましたので、勇気を出して、巨人ゴリアテに、挑戦するチャレンジャーとなる事が出来ました。


*17章45ー49節を読見ましょう。
 ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。
 ダビデは、イスラエルの神、万軍の主、力ある神の御名によって、おまえたちに立ち向かう!と宣言し、主の力がすべての国々に知れ渡り、真の神がおられる事を証するために、挑戦者となることが出来ました。主の為にという心を持つクリスチャンは、勇士となる事が出来ます。
そして石ころ一つで、巨人ゴリアテを打ち倒す事ができたように、自分に与えられた立場や、能力、賜物、それらが小さいものであっても主の御栄光を現す世の光となれるのです。
またダビデが勇敢なチャレンジャーになれたのは、主への信仰だけではありません。主への愛があったからです。


 1ヨハネ4章18節 愛には恐れがありません。全き愛は恐れを閉め出します。
主イエスは、私たちへの完全な愛をもって、あの恐ろしい十字架へと向かってくださいました。そして十字架の上で、私たちの身代わりに死なれ、私たちの過去、現在、未来、すべての罪をきよめてくださいました。そして永遠の命を与えてくだったのです。
 そのイエス様の愛にお答えし、全生涯を通して、主の御栄光を現す者とされていきましょう。

                        

 

関連聖書箇所:サムエル記上

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