(2012-03-18)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、この世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3章16節)
For God so loved the woeld tthat he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life. John 3 : 16
一、神の愛(?ヨハネ4章7—10節)
紀元90年頃書かれたヨハネの愛の教えは、それから二千年近く経った現在の私達の愛と違っているでしょうか。いいえ、それは少しも変わってはいません。むしろ、今の私たちこそ聖書から愛の何たるかを学ばなければなりません。私たちは会社でも家でも人を避けて一人では生きて行けません。むしろ友人を作りたいと願って努力します。しかし、かえっていざこざを起こしたりせっかく喜んでもらえると思ってしたことが、お節介に思われたり、迷惑がられたりすることが多いものです。そうなってしまうのはどうしてだと思いますか?。それは、私たちのもっている愛が不完全だからなのです。完全なのは、聖書の記す神の愛だけです。
ここで私たちが『愛』と言っていることばの三つの意味を見てみましょう。それは、
? エロス……「自己中心の愛」相手に、愛される資格があるかどうかを見て、自分にとって価値のあるものだけを愛する。一方的に相手から奪う愛。
? フィリヤ…「友愛」などと訳される親愛の気持ちを持って、相手のことを配慮する愛
? アガペー……「自己犠牲の愛」相手に愛される資格や価値が有るかどうかを問題とせず、
相手そのものを愛する。一方的に自己を与える愛。この三つです。
この中で? のアガペーが、聖書でいう完全な愛を指します。完全な愛、つまりキリストの十字架上の贖いによって示された神の愛なのです。
私たちは、だれひとり神の前に正しいということのできない存在です。どんなに努力しても人間の力では、きよくなれないのです、神は、小さなものでも、罪はお赦しになりません。しかし人間を、神と親しく交わる存在としてお造りになられた神は、その関係を回復したいと願っておられました。それで、罪深い人間の身代わりとして、御子キリストを十字架につけて、さばきをくだされたのです。死ぬべきなのは、私たちでした。けれども神は、愛される価値のない私たちのために、大切なひとり子の命を投げ出されたのですこれが、本当の愛です。義であられる神が、同時に愛であられるということは、実に、キリストの十字架で全うされたのです。
二、互いに愛しなさい(?ヨハネ4章11ー21節)
ヨハネは教会員たちに、何度も『互いに愛し合いなさい』.と勧めています。私たちは、本当に不完全な者で、自分を認めてくれる人しか愛せないという自己中心の愛に凝り固まった罪人です。しかし、愛の神を信じ、その愛がどのようなものか分かった者は、本当に人を愛することができるのです。
イエス・キリストを信じた者は、神の子供とされ、今までの自己中心の生活から、神中心の生活に変わります。神を愛する生活になるのです。20節を読んで下さい。目に見えない神を本当に愛している人は、目に見える周りの人を愛します。その人々に関心を持ち、必要を知り、行動をするのです。聖書では『自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい』と弱い人間に分かる言い方で命じています。イエス・キリストの十字架の愛の模範を見上げつつ、クリスチャンの歩みを進めていこうではありませんか。
*3月18日 神の愛 聖書箇所=?ヨハネ4章?ー5章5節
神の愛と人間の愛
関連聖書箇所:ヨハネ(1)