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このWEBサイトは生駒聖書学院創立者であるレオナード・クート師の当時の資料を保存、共有しています。聖書の学びの助けになれば幸いです。

礼拝メッセージ

全能の神

(2012-03-04)

 わたしは全能の神である。あなたは、わたしの前を歩み、全き者であれ。
                              (創世記17章1節)

I am God Almighty ; walk before me and be blameless. Genesis 17 : 1

一、神の偏在と全知(詩篇139篇1—12節)
  『神』という言葉は、クリスチャンでない人の間でもよく使われる言葉です。その意味は、何か人間の力を越えた、超越した存在を表すことが多いようです。罪に汚れた人間は、神を真に理解することとはできませんが、それでも漠然と理解しているように思えます。
 実際、神は超越したお方です。まず知識の面において、すべてのことを知っておられます。被造物、すなわちお造りになった一つ一つの物、人間一人一人を知っておられるのです。どのように知っておられるのでしょうか。詩篇139篇の冒頭に『探る』ということばがあります。これは調査するという意味ですから、あなたも私も、神は、すっかり調べ上げて、奥深くまで知っておられるということになります。
 ではどんなことを知っておられるのでしょう。『座るのも、立つのも』(2節) は両極端のことばを組み合わせて、生活、活動全体を表しますから、神は私たち一人一人の行動を、ことごとく見守り、ご存知だということです。行いだけではありません。心の中の隠れた思いも、それがことばになる前から知っておられるのです (2、4節)。
 また神は、空間、場所、にも制限される方ではないことを、詩篇作者は歌っています。7節の『あなたの御霊』『あなたの御前』は同じ意味で用いられています。神から離れて、いったいどこいへ逃れることができるでしょうか、いやできない、と作者は言っています。上は天に上ったとしても、下は地下深く、死者が休息すると言われるよみにまで下ったとしても、そこに神がおられるのです。次に作者は『曙の翼をかって』(9節)、太陽の昇って来る東の果てに住む事を考えます。『地上を東西南北に行って地の果てに住んでも、力強い神の主権が認められ、作者を捕えて離さないのです。上下に、東西南北に、遠くに逃れることをあきらめて、やみによって見えなくされたいと思っても、何一つ神の目に隠れることなく、そこに神はおられるのです。

二、神の全能(イザヤ40章18ー26節)
 神はその力においても制限のある方ではありません。ご意志のままにすべてのことをなし得るということですが、ご自身の道徳的性質に反することはされません。
 神の全能の力の表れとして創造があります。神はすべてを創造されました(21、26節) が、その被造物やご自身の造られた自然法則の束縛を受けません。通常はご自身の造られたものに干渉されませんが、傍観するのではなく、主権者、さばき主として、摂理のうちに歴史を支配しておられます (23、24節)。
 だれも神を造り出したものはいません。神は独立した方であり、自ら存在される方です。偶像は、木や石などの被造物を使って、被造物である人間が造ったものである、これを拝むことはむなしいことなのです(18—20節)。


*3月4日   全能の神    詩編139篇1—12節   イザヤ40章18—26節。 

 神の偏在、全知、全能。

関連聖書箇所:イザヤ書

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