罪よりの解放

今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。             
                             (ロマ8章1節)
 人はだれでも、試練や困難に直面した時、それを乗り越えていく力が欲しいと思います。人から悪口を言われ、意地悪をされたとき、笑って赦せる広い心の持ち主になりたいと思います。ところが、現実は必ずしもそうではありません。悪い習慣から抜け出そうとしてもなかなかできません。
 ある日、ひとりの老すりが警察に捕まりました。彼は涙ながらに、次のように言ったそうです。『だんな、あっしの手が悪いんです。心ではやりたくないと思っているのに、この手が言うことを聞かないんで』
 あなたも、これと似た経験はありませんか。あのパウロでさえも、こう叫んでいるのです。『私には、自分のしていることがわかりません。私は自分のしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行っているからです。ですから、もし自分のしたくないことをしているとすれば、律法はよいものであると認めているわけですからそれを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです.私は、私のうち
すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという
願がいつもあるのに、実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行わないで、したくない悪を行っています。(ローマ7章15−19節)
 イエスの弟子たちもこの点例外ではありません。ペテロもヤコブも、そのほかの弟子たちも、いざという時、恐ろしくなって逃げ出してしまいました。
『イエス様、あなたがお死にになるときは、私もいっしょに死にますよ』言っていたペテロなど『あなたはイエスの弟子でしょうと言われた時に『知らない』と知らん顔をしています。
 こんなに弱い、惨めな弟子たちでしたが、後には、死をも恐れないで、命がけで伝道する人となりました。彼らに何が起こったのでしょう。イエスが死んで甦り、天に帰へられるときに、約束された聖霊を受けたからです。そのような力は、当時の弟子たちだけに約束されたものでしょうか。いいえ、違います。 それは今日でも、真心から罪を悔い改めイエスを救い主と信じる者に同じよう約束された力なのです。私たちがみことばを素直に受け入れ、イエスに徹底的に従っていくとき、私たちはその力を満たされます。
 イエスにすべてを明け渡し、聖霊の力によって大胆に生きる者になろうではありませんか。

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