私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。 (1テサロニケ4章14節)
第一、復活の目撃者たち(ルカ24章33−35節)
弟子たちは、イエスが復活したことについて語り合っていました。すでにシモン・ペテロが目撃し、クレオパたちも、自分たちがエマオに向かう途上でイエスに出会った時の様子を証言していました。そんな中にイエスが突然現れたのです。数々の奇跡を目撃しながら主と共に歩んで来た者たちですら、死んだはずのイエスが復活するなど、信じられないことでした。弟子たちが幽霊ではないかと疑ったほどです。
二、復活の主イエス、復活の証人 (ルカ24章36ー48節)
イエスは、二つの証拠によって、ご自分が確かに復活し生きている事を示されました。
一つは、ご自分が持っておられる肉体を示すことによって(39節)。そしてもう一つは、
弟子たちが差し出した焼いた魚を食べてみせることでした (41ー43節)。このように,
私たちの身体と変わらない体がいかにして、閉じられた戸を通り抜けられるのか、あるいは突然現れて消えるのか、理解し難いことですが、いつしか、私たちも同じ主の栄光にあずかることが約束されています(1ヨハネ3章1、2節)。
イエスは再び、エマオ途上の二人の弟子に対してしたように、弟子たちに、ご自身について、モーセの律法と預言者と詩編、つまり旧約聖書全体に書いてあることを説明されました。それは、キリストの苦難と死、復活、赦しのことです。弟子たちはその目撃者であり、宣教者です。イエスの説き明かしによって、弟子たちは自分たちが何をし、何を語るべきかを理解しました。さらにイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開かれました。
大切な点です。普通、書物は理性で読み解いていくものです。しかし、聖書は理性だけでは理解することはできません。聖書は、心を照らす聖霊の働きなくして、また聖霊への信頼なくしては、理解することは出来ません。聖霊が聖書の著者であり、解説者であるからこそ、聖書は祈りつつ読む必要があるのです。
三、イエスの約束と祝福(49ー53節)
イエスは聖霊を遣わす約束を繰り返されます。そのために、都にとどまり、その時を待つように勧められます。それは彼らが使命を果たすために必要な力を得ることの約束でした。彼らは主の復活の証人としての働きを、自分たちの力ではなく聖霊の力に励まされてなすように期待されたのです。この働きは、まもなく、ペンテコステの日に果たされることになります。(使徒1章2ー4節)。彼らは喜び、神をほめたたえながら、その時を待ちました。