選ばれた取税人マタイ

 わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。(ルカ5章32節)

一、マタイに声をかけるイエス(ルカ5章27、28節)
 イエスが道を歩いておられると、途中に収税所がありました。当時、ローマ帝国の支配のもとに暮らしていたユダヤの人々は、さまざまな税金をローマに納めなければなりませんでした。その集金の仕事の当たっていた取税人たちは、実際の税の何倍もの金額を人々から巻き上げて、私腹を肥やしていました。ユダヤ人なのにローマの手先になって働き、しかも不正をして同胞を苦しめていた取税人は、人々から蛇のように嫌われ、軽蔑されていました。イエスが通りかかられた時ちょうど収税所に座っていたマタイも、そうした取税人の一人でした。お金には不自由せず、贅沢三昧にの生活をしていたマタイでしたが、心は虚しさでいっぱいでした。意味のある、本物の生活をしてみたい、そう思う始めていたのです。そんなマタイにイエスは目を留め『わたしについて来なさい』と声をかけられました。本当の幸福、生きる目的は、この方から与えられる以外にはないと確信したマタイは、一切を捨ててイエスに従いました。

二、罪人を招くイエス(ルカ5章29ー32節、6章12ー16節)
 イエスを信じたマタイは、早速、自分の家で大祝宴を開いて、取税人たちをはじめ、大勢の人々を招きました。昔の仲間たちに、本当の喜びと生きがいをお与えになることのできるイエスを紹介したかったのです。彼らにもぜひ、今の罪深い生活から抜け出して、この方に従ってほしいと思ったのです。マタイのこの純粋な願いをご存知だったイエスは、喜んでこの祝宴に出席されました。すると、パリサイ人と律法学者たちは、取税人のような罪人と食事を共にするとは何事か、とイエスを非難しました。彼らは、自分たちは忠実に聖書の律法を守っており、神の前に正しい者であると自負していました。ところが実際は、マタイの救いを共に喜んであげるだけの愛すら持ち合わせていない、冷たい心の持ち主だったのです。イエスは、『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です』(31節)と言って、自分は罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。と述べられました。『義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3章10節) とあるように、神の前ではすべての人が罪人です。自分をあくまで正しいとし、他の人々をさげすんでいたパリサイ人や律法学者よりも、神の前に自分の罪を認め、深く悔い改めた取税人マタイのほうが神に喜ばれ、受け入れられたのです。私たちも自分の罪を告白するならば、赦されて、神の子としていただくことができます。そして、イエスがマタイを12弟子の一人として用いられたように、私たちもイエスの証人として素晴らしい人生をスタートすることができるのです。

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