主は、号令と、御使のかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下ってこられます。(?テサロニケ4章16節)
キリストは、よみがえって弟子たちに現れ、やがて昇天されました。そのキリストが、再び地上に来られることが約束されています。その時は近づいています。
一、再臨の待望(マルコ13章33ー37節)
主イエスは、この世の終わりと神のさばきについて多く語り、その時を目を覚まして待ち続けるように教えられていました。そにさばきと救いの完成は、やがてキリストが昇天された後、キリストの再臨と結びつけて考えられるようになります。キリストの再臨によって、この世はさばかれ、神の国は完成するのです。
主イエスは弟子たちに、繰り返し『目を覚ましていなさい』と諭されました。霊の目を開き、信仰をもち続け、神の裁きに備えるようにと言われたのです。初代教会のクリスチャンたちは、それをキリストの再臨と結びつけ、同じ信仰に生きました。終末の信仰の時代に生きる私たちは、キリストの再臨を待ち望みつつ、目を覚まして生きていかなければなりません。キリストの再臨が近づいているからです。
二、再臨の約束(使徒1章11節、?テサロニケ4章16、17節)
キリストが昇天された時、二人の天使が約束して告げ『あなた方を離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります』(使徒1章11節)。神は弟子たちに、キリストの再臨をはっきりと約束されたのです。使徒パウロもキリストの再臨について、明確に語っています。(?テサロニケ4章16節)。パウロの表現によると、キリストの再臨は、神のラッパの響きのうちに勝利の主として行われます。キリストは、まず卑しいしもべの姿を取ってこられたが、やがて勝利の王・審判者として来臨されるのです。
三、再臨の意義(?コリント15章51ー53節)
使徒パウロは、キリストの再臨の時にできごとについて、次のように語っています。『私はあなたがたに奥義をつげましょう。………』51ー52節。(朗読する)。
キリストが再臨される時、死者は朽ちないもの、つまり罪と死を克服した体によみがえる。生きている私たちも、同じように罪と死から完全に開放され、不朽の体に変えられるのです。キリストの再臨は罪と死とに対する勝利であり、キリストにある救いの完成なのです。それまで、私たちは『私たちのからだの贖われることを待ち望んで』(ロマ8章23節地上において苦しい戦いを続けています。しかし、キリストの再臨によって完全に贖われて、朽ちることにない体に変えられるのです。キリストの再臨は、救いの完成であると共に、神の国の実現です。キリストは、すべての支配権力を滅ぼし、神の国を文字通り実現されるのです。