わたしは勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。(?テモテ4章7節)
一、前に向かって進む(ピリピ3章5−14節)
パウロは生粋のユダヤ人でした。なんの落ち度もなく律法を守る生活を送っているつもりでした。しかし7,8節を読んでください。当時の社会的な立場から見ると超エリートであったその生活を『ちりあくた』だと言っています。原語では『排泄物』を意味することばです。それは、その生活では真の喜びも平安も得られなかったからです。真面目に律法を守っても得られなかった本当の救いを、パウロは、ただイエス・キリストを救い主と信じる信仰によって得ることができたのです。
そんなパウロが表現したキリスト者の姿は、競技場で汗を流しながら目標に向かって
一生懸命走っている人の姿でした。12−14節を読みましょう。信仰をもって神に喜ばれる人生を求めて走る者には、神が栄冠を与えてくださるのです。そのためには後ろのものを忘れひたむきに前に向かって走らなければいけません。隣の人がどんな走り方をしているかよそ見ばかりしていてはゴールを見失います。また、以前してしまった失敗を思い出してめそめそしたり、昔のことを懐かしんだり、失ったものを惜しんでくよくよしていては前に進めません。私たちは、パウロが『キリスト・イエスが私を捕らえてくださった』と言うように、守ってくださる神に信頼して神と共に前に進むべきです。
二、みことばを伝える人生(?テモテ4章?−5節)
キリストに従うようになってからのパウロの人生は『みことばを伝える人生』でした。
キリスト者への迫害が強くなっていくローマで投獄されて、パウロは自分の死が迫っているのを知っていました。パウロは自分が主に従う人生を全うしたことを感謝しつつ、後輩伝道者のテモテに、自分と同じ使命に立つ人生を送るように勧めます。2節を読みましょう。『時が良くても悪くても』ということばは、パウロの体験に裏づけられています。迫害されても、バカにされても、裏切られても、そして牢屋につながれている時でさえ、パウロはみことばを伝えることをやめませんでした。どんなに悪いことも、神がすべてを良いことに変えてくださることを知っていたからです。
三、義の冠が用意されている(?テモテ4章6−8節)
殉教の死が近づいても、パウロは、死がすべての終わりでないことを知っていました。
イエス・キリストが十字架にかけられ、死んで葬られ、よみがえってくださったことは、死に勝利したことを意味します。キリストを信じた者たちは、走るべき道のりを走り終えた時、走り抜いたことを評価してくださる神から栄冠を頂くことができるのです。
パウロはきっぱりと『勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました』(7節) と言うことができました。死を前にして、これまでの人生を主が守ってくださったことを感謝しています。そして『義の栄冠』を心から喜び期待しています。
私たちも、自分に与えられた信仰のレースを忠実に走り抜かなければなりません。途中でくじけたり、転んだり、迷ったりすることがあるかもしれませんが、神はすべてをご存知です。私たちの弱さに同情しながら見守り、励ましてくださいます。最後まで従った者にふさわしい冠を用意して待っていてくださるのです。