来るべき主の日に備える

目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。(マタイ25章13節)

一、灯火を持って花婿を出迎える10人の娘(マタイ25章1−5節)

当時のユダヤでの結婚式は、夜、花婿が友人と共に花嫁の家に迎えに行き、花嫁を花婿の家に連れて帰って盛大にお祝いのパーテイを行うというものでした。その際、花婿の友人たちが先立って花婿の家に行き『花婿が来たから迎えに出て下さい』と言うと、花嫁の友人たちがそろって出迎えるという習慣がありました。この喩えの花婿とは再臨なさる主イエスを指します。出迎える十人の娘たちは、再臨を待ち望む私たちクリスチャンのことです。十人の娘たちのうち、五人は賢く、残りの五人は愚かであったとあります。賢い娘たちは、花婿を迎えるまでの間、手にしたともしびの光を絶やさないよう、つぼに油を用意していました。この『油』とはいったい何を意味するのでしょう。真夜中、花婿がやっと訪れた時、この『油』を用意していたかどうかが、娘たちの運命の決定的な分かれ目となったのです。

二、『賢い娘たち』のように(6ー12節)

 花婿が来ると、娘たちは皆すぐに飛び起き、それぞれのともしびを整えました。しかし愚かな娘たちのともしびは、油がなくなって光が消えてしまいそうです。そこで賢い娘たちに、油を分けてくれるように頼みましたが、つれなく断られ、とうとう結婚のパーテイから閉めだされてしまいます。
『油』は、主イエスを信頼し、そして日々従う生きた信仰を意味します。愚かな娘とは、主イエスを救い主として信じてはいても、日々の生活の中で、主に信頼し、主と交わりをもとうとしないクリスチャンを指すのです。私たちは、イエスを救い主とし受け入れた後みことばに絶えず触れ、祈りを重ね、自立した信仰を育てていかなければなりません。普段は主イエスを閉めだした自分本位の生活をしていながら、ある日突然主により頼むということはできません。また信仰とは、人から分けてもらうようなものでもありません。自分で育てていかなければならないものなのです。あなたはイエスを救い主として信じていますか。それならば間違いなくあなたはクリスチャンです。それではあなたは、毎日の生活の中で、イエスに信頼し、従う生活をしていますか。それとも、聖書は日曜日以外開かず、お祈りなど滅多にしない、何でも自分の願いを優先してしまう、そういう生活でしょうか。もしそうならば、愚かな娘と同じなのです。

三、『目を覚ましていなさい』(13節)

ですから、主イエスは、私たちに『目を覚ましていなさい』と忠告してくださいました。主イエスがこの世に再び来てくださる日は、まるで結婚の祝宴のように、主イエスに従う者にとって大きな喜びなのです。その喜びを共にするため私たちは、毎日の生活の中でいつも主イエスを中心に迎え、主イエスに信頼し、生きた信仰を育てていきましょう。

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