信じない者にならないで、信じる者になりなさい。(ヨハネ20章27節)
一、復活の主(ヨハネ20章19−23節)
イエスがよみがえられた日の夕方、弟子たちは、イエスを殺したユダヤ人当局者たちを恐れて、戸を閉め一室に閉じこもっていました。と、そこへイエスご自身が入って来られたのです。復活のイエスの体は霊の体でしたから、戸や壁などの物質的なものに遮られれませんでした。そして驚く弟子たちに、十字架の傷跡をお見せになりました。弟子たちは恐れ、悲しみはあとかたもなく消えました。くりかえしいわれた
『平安があなたがたにあるように』とのことばにどんな喜び、慰めを受けたことでしょう。
二、決して信じません(24、25節)
ところが、12使徒の一人トマスだけがその場にいませんでした。他の弟子たちがイエスに会ったことを話した時の彼の反応はどうだったでしょう。25節を読んでください。トマスは、主の御手の釘跡を見、自分の手で主の手で主の脇腹の槍の槍跡を触って見ないと信じられないと答えました。ここにトマスの性格が現れています。彼は自分で確実だと納得する以外のことを信じることができませんでした。そしてその気持を正直に告白したのです。とはいえ、一人だけよみがえりを信じられないままその仲間にいることは、彼にとってどんなに落ち着かない不安な日々だったことでしょう。トマスは、信頼しあうべき仲間の証言を信じないまま、彼らと共に生活していました。
三、私の主、私の神((26−29節)
主は疑惑の中に迷っているトマスを、そのままに捨ておかれませんでした。八日の後、弟子たちが以前と同じように家の中に閉じこもっていた時、再び主が彼らの前に現れてくださったのです。『あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい』主は、トマスのことをすべてご存知でした。忍耐深い主イエスは、トマスのことを不信仰と鈍さを叱るためではなく救いを与えるために来られたのです。
トマスにはこのイエスのことばで充分でした。このうえ、手を差し込む必要はありません。信仰のなかった自分を恥じてすぐさま主イエスの前にひざまずき『私の主、私の神』と叫びました。これは、トマスの悔い改めと信仰告白です。その彼を主は受け入れ『見ずに信じるものは幸いです』とおっしやいました。これはトマスだけではなく、イエスを肉眼では見ることのできない時代の私たちに向かって語られたことでもあるのです。
*主題=素直にみことばを信じる。