『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを
赦してくださったように、互いに赦し合いなさい』 (エペソ4章32節)
一、ペテロのの質問(マタイ18章21節)
ペテロがイエスに質問しました。21節を読みましょう。当時、ユダヤ教の教えでは、赦しは三度までであり、四度目からは赦されないとされていたので『七度まで』と言ったのはペテロは、相当な忍耐と寛容を示したつもりだったのでしょう。
二、イエスの答え(マタイ18章22節)
『7度を70倍するまで』というのがイエスの答えでした。7は完全数と言われ、その70倍ですから、実際には『無限に』ということです。回数ではなく、無限の赦しをイエスは教えられたのです。ペテロは自分たちが大いに寛容であるべきだとは思っていたでしょうが
、赦しには限度があるという考えから抜け出すことができませんでした。しかしイエスは『無限』赦すべきであるとおっしゃったのです。
三、赦す(マタイ18章23ー35節)
さらにイエスは、私たちが『赦し』という問題をどのようにとらえるべきかを具体的に示すために一つのたとえ話をなさいました。
23ー27節を読みましょう。『地上の王」は主なる神、『しもべは』は私たち人間の事です。しもべは王に対し、1万タラントもの負債を負っていました。これは当時、一生身を粉にして働いたとしても返すことのできない巨額なお金です。王はしもべに返済を迫りますが、当然返すことができません。しもべがひれ伏して、もう少し待ってほしいと請うと、王はしもべを『かわいそうに思って』(27節)、すべての借金を免除してやったのです。
私たちは神に対して「罪」という。返済不能の負債を負っています。私たちは、ただ神の愛と憐れみの故に、罪に対する刑罰、永遠の死を免れ、完全に赦しを戴いたのです。
さて、たとえ話はどのように続くのでしょう。28ー35節を読みましょう。そこには、王から1万タラントの返済を免除してもらったにもかかわらず、それと比べようがないほどの少額の借金を免除してやることのできないしもべの姿が描かれています。私たちは、この情けないしもべを笑うことができるでしょうか。このしもべは、私たちの姿そのものです。神にすべての罪を赦して戴きながら、他方では、周りの人から受けた行為の一つ一つに腹を立て、その人を赦すことができないのです。しかし、私達が赦し難いと思うどんな行為も、実は、私たちが神に対して負っている罪という負債に比べれば、本当にわずかで、ちっぽけなものです。33節をもう一度読みましょう。神のあわれみによって一方的に罪赦された私たちは、周りの人々を積極的に赦す生き方をが求められています。神の圧倒的な愛と赦しを自覚し、真剣に祈り求めるならば、私たちも、他者を心から赦すことが出来るのです。
* 9月16日 人を赦す 聖書箇所=マタイ18章21ー35節
主題=主イエスは、どこまでも赦すように教えられた。