『私はぶどうの木で、あなた方は枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。』(ヨハネ15章5節)
一、とどまる(ヨハネ15章1~10節)
イエスは、ご自分と弟子との関係を、ぶどうの木とその枝に例えて説明されました。
どんな果物の木でもいえることですが、期待されている実を結ぶことです。そして実を結ぶことはいつも木と枝との共同作業です。木は実を結ぶために必要な栄養を枝に運びます。そうやって送られてきた栄養を受けて、枝は豊かな実を結びます。それと同じようにイエスは弟子たちがぶどうの木である主ご自身にしっかりつながった枝であるように、そして豊かな実を結ぶようにと教えられました。このときイエスが弟子たちの役割として繰り返し命じられたのは『とどまりなさい』ということです。『とどまる』ということばが (4-10節) の中に合計10回も出てきます。イエスがどれほど強調されたがわかります。
それでは、イエスに『とどまる』とはどういうことでしょうか。9、10節を読みましょう。イエスは、『わたしの愛に中にとどまりなさい』と言っておられます。イエスの愛は、13節で言っておられるように、私たちのためにいのちを捨てて下さった、十字架の愛に表れています。この愛に背を向けず、いつもイエスの愛を確認することが大切です。イエスの愛に信頼し、私たちのことを思って語られた戒め (みことば) に従うならば、それがイエスの愛を体験することにつながるのです。
またイエスは、私たちがより多くの実を結ぶために、農夫である神が刈込みをなさると教えて下さいました (2節)。罪が示される時や、試練の時、それは私達が実を結ぶために神が愛をもって与えてくださっている導きなのです。
二、求める(ヨハネ15章7~11節)
次にイエスは『何でも求めなさい』と言われました。7、16節を見ましょう。ここで言われているのは、何でも気の向くまま求めれば、すべて与えられます。ということではありません。イエスは、私たちがイエスにとどまり、主のことばに喜んで従う時、私たちが求めたくなるものは何でも与えられると言われたのです。このようにイエスに従い、戒めを守ろことは、イエスと喜びを分かち合い、満たされることなのです (11節)。
三、互いに愛し合おう(ヨハネ15章12~17節)
三つめにイエスが言われたのは、互いに愛し合うと言う戒めです (12、17節)。イエスは愛をもって私たちを選び、救い、弟子としてくださいました。それは大きな喜びです。
主は私たちがその喜びを互いに表し、伝え合う事を期待しておられるのです。互いに赦せなかったり、愛せない時、イエスの愛を思い出し、愛することを教えてくださいと祈り求めましょう。その時、私たちはイエスの愛と、愛することの喜びを心から知って、喜びに満たされるに違いありません。
* 9月9日 実を結ぶ信仰、 聖書箇所=ヨハネ15章1ー17節
実を結ぶ者としてイエスが選んで下さったことを知り、その選びにふさわしく生きる。