私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった
ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(ローマ5章8節)
一、罪による死と義とされること(ローマ4章25、5章11節)
このローマ人への手紙を書いたパウロは、イエスが、私たちの罪のために十字架で死なれたと語ります。イエスが私たちの代わりに、聖なる神の裁きを受けてくださったということです。しかし、キリストはよみがえられました。何故でしょうか。聖書は人が罪を犯したのでその呪いとして『死』が人を苦しめることになったと言います。けれども、その罪がイエスによって除かれたのです。それで、死はその力を失いました。そのことの保証として、まずイエスがよみがえられたのです。言い換えると、よみがえりは、私たちの罪が取り除かれたことの印でもあるということです。その結果、私たちは、罪人でありながら、神に義と見なされると説明しています。クリスチャンが『赦された罪人』であると言われるのは、まさにこのことなのです。
もしそれを信じないならばどうなるでしょうか。せっかくの赦しを拒否したことになります。けれども信じるならば、義と見なされます。そして、神と親しい交わりの関係に入れられるのです。神との平和をもつことになるのです。聖書の語る『平和』とは、単に地上に争いや戦いがないということではありません。罪という障害が取り除かれて、神との親しい交わりがあるということです。
二、神の愛が注がれていると言うこと(5章2−5節)
イエスによって救いの恵みに置かれた私たちは、将来、神が私たちを御国に招いてくださることを信じて喜びます。しかし、それだけではありません。今のさまざまな悩みや困難の中でそれすら喜ぶことができると聖書は教えています。何故でしょうか。実は、さまざまな悩みの背後に、神の愛があるのです。艱難に耐えると、忍耐を学びます。忍耐は、
私たちの人格的な品性を練り上げます。その品性は、ますます神への希望を生み出すと教えています。しかも、この希望は、裏切られることがありません。というのは、御霊によって信仰をを与えられ、実際に神との愛の交わりが与えられているからなのです。確実に、神が私たちの信頼にお答えくださるからなのです。
三、先行する神の愛(5章6−11節)
私たちは、親切な友には自分も親切にしたいと思うでしょう。失礼で意地悪な人には、
かかわりたくないし、ましてや積極的に親切にすると言うことになると、躊躇するのが自然ではないでしょうか。ところが聖書は、私たちが神の立ち返ったから、神が私たちのための救いを用意してくださったとは言いません。私たちが神の前に正しくない時に、イエスは十字架にかかって死んでくださったと記されています。
神は、人をこよなく愛しておられます。見返りとしての親切ではありません。私たちを愛するが故に御子を十字架につけて裁き、私たちの罪に対する神の正しい怒りを、御子に注がれたのです。