みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。(?テモテ4章2節)
第2回伝道旅行の時、パウロはアテネからコリントに行き、アクラとプリスキラというユダヤ人夫婦に出会いました。彼らは、紀元49年に出されたクラウデオ帝によるユダヤ人追放令によって、ローマから来ていたのです。歴史家スエトニュウスによると、それはクレストスによるユダヤ騒動による追放であるとのこと。クレストスというのはキリストのことで、彼らはすでにキリスト教徒であったと思われます。
一、パウロと共に働く(使徒18章2ー4節)
『パウロは二人のところに行き、自分も同業者であったので、その家に住んで一緒に仕事をした』パウロはコリントに着くとすぐ、ユダヤ人クリスチャンである二人を捜し出して
訪ねました。パウロは彼らと同業者であったと言われているが『彼らの職業は天幕作りであった』山羊の革をなめしたり、羊毛で織った布で天幕を造る仕事でした。
天幕作りは、パウロの本職ではなく、ラビ学徒たちはすべて、修学時代にそのような仕事を身に付けるのが常でした。そこで、パウロも天幕作りができたのでしょう。彼らは、
天幕作りをしながら、共に伝道をしました。
二、パウロと共に旅をする(使徒18章18ー23節)
パウロは、1年半を超えるコリント伝道を終えてエルサレムへのの帰路に着きます。その時、『プリスキラとアクラも同行した』彼らは、パウロを尊敬し、共に生活しただけではなく、共に旅をすることを決めました。彼らは、ケンクレヤを出航し、エーゲ海を渡って、エペソに着きました。
エペソでは、パウロはいつものように、安息日にユダヤ人の会堂で伝道しました。その結果は順調で、人々はもっと長くとどまって伝道するように要請するほどでした。しかし
、過ぎ越しの祭りに間に合うように、エルサレムへの旅を急がなければならなかったので、プリスキラとアクラを牧会のために残してその働きを続けさせました。彼らは、その後訪れたアポロに『神の道をもっと正確に………説明した』(26節)。パウロから学んだことが、このとき役に立ったでしょう。
三、パウロと共に生きる(ローマ16章3、4節)
パウロは、ローマ書の中で『自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれた』と言って、二人に深く感謝しています。第3回伝道旅行の時、パウロは再びエペソに来て
、大胆に福音を宣べ伝えました。その時、銀細工人デメテリオの扇動によって大騒ぎが起こり、ガイオとアリスタルコが捕らえられた時、パウロは、彼らを助けようと群衆の中に飛び込んでいこうとしましたが『弟子たちがそうさせなかった』(使徒19章30節)。おそらく、その時、アクラとプルスキラは自分たちの生命の危険をも顧みず、パウロを助けたのでしょう。彼らはパウロと共に生きる者でした。異邦人のすべての教会は彼らを尊敬していました。また彼らは自分たちの家庭を開放して集会をしていました。