神を礼拝する

主題 神を礼拝する                            
   唯一のまことの神を心から礼拝すべきである
聖句=神は霊ですから神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4章24節)
聖書箇所 詩篇96篇  創世2章?ー3節
*教会の最高の使命は、主なる神を礼拝することです。福音を伝え、聖徒を整えることも重要ですが、主なる神を礼拝することはもっと大切です。聖書は,全体としてそのことを強調しているが、詩篇96篇は、その姿を美しく描写しています。

一、主に賛美をささげる(詩篇96篇1−6節)
 詩篇96篇は『主に歌え』という繰り返しをもって賛美の歌を始めます。主に賛美をささげることが、礼拝のすべてです。天地を創造し,世界を支配し,歴史を導いておられる神をほめたたえ,賛美とを礼拝をささげるのです。そして、その主なる神の栄光を国々の中で告げ、主なる神の優れた働きを国々の民に語るのです。
 主なる神は、天地を創造された方で、人間の想像によって造られた神々とは違います。国々の神や偶像は、実体のない空虚なものです。そのような神々に賛美と礼拝をささげるのは、愚かなことです。天地を創造された主なる神にこそ、賛美と礼拝をささげましょう。

二、主に栄光をささげる。(7ー10節)
『栄光と力を主にささげよ』と、すべての国民と民族に呼びかけます。主なる神は、天地を創造し、すべての民族を支配しておられるからです。『主は王である。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはない。主は公正をもって国々の民をさばく』(10節)。世界の王であり、すべての民族を支配しておられる神に、栄光をささげるのです。
 主に栄光をささげるとは、ささげものを携えて主の宮に入り、聖なる飾り物をつけて主の前にひれ伏し,全能なる神の御前におののくことです。それは、主なる神を畏れ、真心から礼拝することです。また、すべての民族をおさめておられる神を王として認め、すべての栄光をささげることである。その主なる神に比べると、地上における王や支配者は一時的であり、決して栄光を持ってほめたたえられるような者ではありません。

三、主に歓喜をささげる(11ー13節)
『主の御前で、喜び歌おう』と、すべての被造物と国民に呼びかける主なる神は、この世を救い、世界をさばかれる空です。『確かに、主は来られる。確かに、地をさばくために来られる』と言われているとおりです。主なる神は、象徴的な観点ではなく、現実に働く神なのです。この世界において、すべての国々を支配される方でなのです。すべての自然に生命を与え、守られる方なのです。
 そのことがわかったとき,すべては神をほめたたえ、歓喜の歌をささげるのです。主なる神にささげる礼拝と歓喜は、
神によって造られたすべての被造物によってささげられる。『天は喜び、地は、こおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ,野はその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう』と言われているとおりです。主に対する歓喜の礼拝はすべての被造物のによってささげられる宇宙大のものなのです。

*神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
イエスは、この言葉を,サマリヤの女との会話の中で語られました。ユダヤ人はモーセの五書を聖典として、エルサレムの神殿で礼拝していました。それに対抗して、サマリヤ人はサマリヤの五書により,ゲリジム山で礼拝していました。
両者は人種的紛争と対立とにより、すべてにおいて争っており、そこには、真実の礼拝はいささかも見られなかった。そのような状況の中でイエスは,礼拝はが霊的でなければならないことを改めて説かれたのです。『神は霊ですから』がすべてを説くかぎである。神が霊であることを知るとき、人間の争いや対立を礼拝に持ち込むことの愚かさが分かってくる。霊であられる神を礼拝する正しいあり方は,ただ霊とまことによって礼拝することです。そのとき、民族的、宗教的な立場や場所はも早問題ではなくなり真実な一致をもって礼拝するのです。。

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