無理さま(寿崎 徳久)

生駒聖書学院が戦後再開されたのは、昭和二十五年四月である。私はその第一期生として、はるばる東京から入学した。

初めのころ、私は院長レオナード・レン・クート先生から信頼され、-- たとえば、大阪救霊会館の敷地を購入したときなどは、学生の身でありながら、地主との交渉の場に立ち合わされたりした。

そのほか私は重要なことを何かと先生からまかされた。しかし、私の母教会であったイエスの御霊教会とクート先生が属するペンテコステ教団との間の提携が崩れ去り、さらにいちじるしく不和になり、東京からの私の仲間だった学生のほとんどが学院から引き上げてしまった後は、私は先生から次第にうとまれ出し、やがて嫌われる存在になってしまった。

先生は私を御霊教団のスパイ と思っておられるのかな、と私は勘繰ったりした。私は御霊教会へ再び帰る意志はなかった。御霊 教団とペンテコステ教団との溝はそれほどに深くなっていたのである。

卒業も遠くないある日、某宣教師の非行のことで、私は先生と激論をし、宣教師団の責任者としてのクート先生を不遜にも厳しく弾劾した。第一期生の卒業式には、私は一同を代表して兎も角も先生方への感謝を答辞として読んだが、その卒業以来、クート先生には私はたしか一度もお会いしていない。そのまま先生は亡くなられてしまった。先生と私とはいわば喧嘩別れをしたような具合いになった。

クート先生は強烈な個性をもった方であった。それは好悪の感情の激しさとなって、言葉にも行動にもそのまま現われた。先生に恩のある多くの人たちが、先生と衝突して先生のもとを去って行った。先生は自分の飼い犬に手を咬まれるような体験を随分されたことと思う。

追憶集の中へこんな言葉を出すことは不謹慎かもしれぬが、本来なら先生から受けた恩恵に対して感謝をもって報いなければならないはずの人たちが、

「もしクートがあれで天国へ行けるなら、そんな天国へなどおれは行きたくない。おれはむしろ地獄へ行きたい」

などと公言してはばからないのを、私は一再ならず耳にした。私自身、ある時期、先生に対してそういう気持ちを抱いたことがあったかもしれない。申訳ないことだが、これは偽りのない告白である。

太陽が西山に没するようにクート先生もその火 の玉のような生涯を閉じて地上から消えた。生前 その高圧電流のような激しい個性は多くの人々を 先生の身辺から跳ね飛ばしたことはたしかに事実である。

しかし、先生なき今、私の胸に去来する先生の像は、やはり常人とは異る。偉大な伝道者の像である。何がなんでも地の果てにまでキリストの福音を届けようとその事だけにだけ熱中し、その熱中のために全身を燃え切らせたまさに非凡なキリストの下僕の姿である。 その意味で、先生は稀にみる私心のない方であった。

クート先生はご自分を「無理さま」とよんでいた。 生駒聖書学院を何であるよりもまず「練兵場」であると規定されていた。そして「クートが一番嫌いなものは、ムシムシした愛だ」とよく言っておられた。私もすでに四十六才、今にしてようやく分かるのだが、甘ったれた若者たちが院長に求めるものは「無理さま」ではなく「慈父」であり、学院に求めるものは「練兵場」などではなく、「学問の殿堂」であり、「一番嫌いなものはムシムシした愛」ではなく、「一番好きなものはムシ ムシした愛」なのだ。

先生はすべてをはじめからご存じだったのである。 先生はご自身の生涯をかけた巨大な目的のために、人々からわざわざ嫌われることを決意して生きられたのだ。

したがって先生の毎日は、自分 自身との血を流すような戦いであったことが容易に想像される。先生はご自分の魂の最も深い所に人には決して見せようとはしない大きな涙の壺を抱えていたに相違ない。凡夫は今にしてそう思うのである。(終り)

山梨英和高等学校聖書科教諭

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