私の献身生活とクート先生(長曽我部 悦子)
昭和二十六年九月、私はたゞ聖書を知りたい一心で生駒聖書学院に入学し、その六ヶ月後にはク ート先生の御指導と兄姉方の愛の祈りによって聖霊のバプテスマを受け、救いの確信が与えられ献 身の決意を新たにされました。そしてクート先生がその生涯、如何に熱心に主を愛しておられたか は、今も尚耳に残っている「聖書を馬鹿ほどに読みなさい。」と云われた言葉によっても知ることが出来ます。
毎朝八時頃には必ず事務所に行かれた先生、そして礼拝の時も、又教室に入られた時 も、まるで神の御前に立たされた様な濃厚な臨存感を受け厳粛な気持になり、一つ一つの言葉に私 の心は奥底までも確信的にきざまれて行きました。 そして、
先生は死なれたが信仰によって今もなお語っておられます。 「日本ペンテコステのために立ち止れ。」 この声は私が何処え行っても消えることはなかった。又”固く立て”と机を強くたゝき大声で叫ばれた(モーセが紅海に直面した時の講義のところ) この声は様々な問題の岐路に立つ時いつも聞えてくるのでした。
卒業間際にしんみりと”皆様よ神の御用をする者は学院訓練生活のスケジュールをくずしてはなりません。即ち祈りの他に聖書研究を少くとも二時間以上実行出来なければ失敗すると力を込めてこんこんと云われた。
この注告のおことばが今に至る迄どれだけ警告となり、はげましとなり、力となり、勝利と祝福 を体験したかしれなかった。
卒業一年後、当時、大阪救霊会館に配属され御用の一端をさせて頂いていた頃、先生は結婚のお世話をして下さり、そして、”どんな事でも相談しなさい。” とやさしくお仰せられたが私には、 もったいない様な、恥かしいような気持で何も云えなかった。
先生の方から気をもんで ”姉妹よ結婚前に相手をよく知り理解する事は大事だよ”と、右手と左手を出して”こうして互に組合されなければ”と毛深いごっつい自分の手を以って合掌の時のかっこうをされ説明して下さり、相手とよく話し合う為にと御自分のお部屋をかして下さった。そして結婚式の後は、ホテル迄送って下さり”こんなうれしい結婚式は始めてだよ”と喜んで下さった。
こうして神の恵の中に与えられた幼児らは自然に讃美の供えものとして捧げるよう導かれ、又自分自身どんな事があっても、何を犠牲にしても神を讃美することだけは忘れてはならないと決心しました。その後、子供達も成長し、共にきびしい音楽の訓練ではあるが年と共に上達し、その流れる音は美しく神をたゝえているかの様に聞えて来るのです。
常に偉大さを思わせられるクート先生が晩年に至り、集会の帰り暗い夜道を一人とぼとぼとよろけそうになりつい坂道を上って行かれる後姿を見、家にたどり着いても誰もいない部屋、それは如 何に孤独の可酷さと非痛を味わった永い生涯であったか、又、血みどろの信仰の戦いであったろうかと想像した時、声を出して泣かずにおれない気持であった。
先生と最后の面会は意識不明の病に倒れ病院に運ばれてたん意識を恢復された時だった。見舞に行った私達に”ダビデからの手紙だよ”とうれしそうな顔をしてふところからおもむろに出して見せて下さった。
この時、私は近い内に御使いが迎えに来られるような気がした。
今は甦えりの主の御栄光の中に安らかにいわれ千々万々の御使と共に讃美され、地上の私達を 見ていて下さり、そして御言葉の中に生きられた先生の声が聞えて来るようである。 「信仰とは、 望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」と。
牧師夫人 高田キリスト教会