預言者エリヤ(17章~22章)
最後の6章は北王国における預言者エリヤの奉仕に関する記事で占められている。
エリヤはイスラエルのあらゆる物語の中でも最も勇敢な顕著な人物の一人である。
彼がした宗教改革ならびに旧約のどの預言者よりも多く新約に記載されていることにより、
彼の著名なることを証明している。
主の変貌においてはモーセと共に現れるために選ばれた者であった。
さらに、この時から2王国における預言者の奉仕が一段と目立って強調されるようになった。
イスラエル中でも最も劇的性格の一人である彼は、突如として雷のごとき風貌と大嵐のごとき声をもって危機の預言者として空のかなたに忽然と消え去った。
最初の出現より最後の消滅まで、実に驚くべき奇跡の連続である。
今、エリヤの性格、奉仕、重要性の3点について述べよう。
(1)性格
エリヤが偉大なる性格の持ち主であることはすべてによって理解せられる。
彼の奇跡に対してとやかく議論する批評家でさえも、彼の性格の偉大さを認めている。
また身体的にも普通でない何かを備えていたようである。彼は田舎者であった。丘や谷を住居として愛し、
広々としたバシャンの牧場を歩き回る紛れもない遊牧の民であった。粗野で飾らない風采は柔らかい衣をまとった
都会者の目を十分に引きつける魅力があった。
エリヤが王アハブと対決し、日照りが来ることを宣言したときの記事を読むとき、
もじゃもじゃのひげ面をしたぼうぼう髪の不気味な刺し通すが如き目をぎょろぎょろさせた托鉢僧を画いてみる。
また筋骨たくましい両腕を天にまで達するように伸べ、恐ろしい雷の如き大声で意志の弱い王を威圧するように
宣言する場面を想像するがしかし、エリヤは道徳面において人より目立つ短所はなかった。むしろ長所を持っていた。
特に顕著な点は勇気、信仰、熱心である。彼の勇気を見よ。彼は古代のマルチン・ルターである。祭司を相手にしてカルメル山に断固たる決意を下すため只一人で挑戦した。
彼の信仰を見よ。その信仰は勇気の下に置かれた信仰であった。アハブ王の前に出て語るためには、
どんな信仰が要求されたであろうか。「わたしの言葉がないうちは、数年、雨も露もないでしょう」。
雨や露は普通4,5日あるいは一週間、非常にまれには数ヶ月も降らないことがあるかもしれない。
しかし何年間も雨も露もないのは超自然の力がそこに介在することを意味する。
エリヤの熱心を見よ。「私は万軍の神、主のために非常に熱心でありました」と彼が言った時、実に主の熱心を表した。
どれほど?荒野から来た彼は宗教の妥協に対する燃える怒り、神の言葉に対する熱烈な忠節から
神の誉れのための熱心を我らに教えることができる。
(2)彼の奉仕
昔ドクターキットは語った。「預言者には2種類ある。
行いの預言者と言葉の預言者である。後者の偉大なる者としてイザヤがあり、前者にはエリヤの右に出る者はない。
彼の奉仕について第一に語ることは、彼が行いの預言者であったことである。
我らの知る限りでは、彼の書き記した者は何もない。しかし、我らは不思議に思わない。
最も熱烈な精力的宗教改革家のほとんどは著者としての賜物はあまり受けていないようである。
再び言うがエリヤは行いの預言者であった。かかる人もまた必要である。しかしエリヤの奉仕は奇跡であった。
いたるところで奇跡に出くわす。
この故に、ある近代学者は聖言のこの点を主として架空のもの、神話の如きものとして即座に捨ててしまう。
しかし物語りは非常に冷静で、詳細である。彼自身、何も創作しなかった。
彼は背教者に対する新教者であった。彼はまたイスラエル人をモーセに指示された
神の契約を守る良き道へ連れ戻した人であると言われている。
今日かくの如き徹底的な主張をする者が必要である。
(3)彼の重要性
まず神は、その時代に適当した人物を常に持たれるという真理をエリヤは示している。
当時、アハブ王が統治を始めた時で、非常に暗黒な時代であった。
彼はしばしば悪を行った。聖書には「アハブのように、主の目の前に悪を行うことに身を委ねた者はなかった。」
その妻イゼベルが彼をそそのかしたのである」と記している。
アハブ王の統治下にあって断固たる努力はエホバの信仰をまったく根絶させた。
イスラエルの歴史において最も醜悪であった。ちょうど0時に神の戦士は起こされる。
同様のことが歴史に幾度も繰り返されている。
伝道の真理の光がまさに全キリスト教徒より消されようとした時、
またカトリックの教えがその悪の假面の下にヨーロッパ100万人を窒息させようとした時、
神はマルチンルターを起こし、ジョンカルビンをおこされた。
かつて英国が政治上、宗教上、道徳上、恐るべき堕落をし、危地に瀕した時、
神は宗教改革家ジョンウイクリフ、ウイリアムティンデル、ウエスレー等をおこされた。
エリヤが示すところのもう一つの点は、悪が異常な比率で展開する時、
神もまた異常な手段をもって対処される。
イゼベル、アハブが礼拝するように教えたバアル、アシタロテ、アシラの神は、
雨露を生産する要素を象徴する神であった。故に真の神は3年6ヶ月の間、雨露を止めることにより、
真の神は自然の力をさえ征服しうる驚くべき力を示されたのである。
偽りの宗教が行う偽りの奇跡に対抗して、エホバは今や真の神の奇跡をもって全能の力を彼らにあらわされた。
神は非常事態には非常手段をもって対処される。
現今、疑いもなく非常事態がすでに始まっていると信ずる。神は非常手段をもって、
再び挑戦されることを我らは期待する。
「以上」
先に(18~21ページ)エリヤに関する他の書より抜粋して訳したが、
今聖言に従って次の如く分割して研究してみよう。
★第17章
(1)勇気・・・1節
エリヤがアハブになした宣言の中に、彼の大いなる勇気が表現されている。
ここに考えるべきことは、エリヤは普通の人であり、アハブは大きな権力を持つ王であることである。
a.数年間、雨も露もないというメッセージは、神より受けたものであった。
「私の仕えているイスラエルの神」という言葉は、エリヤと神との個人的関係を表している。
これは普通の信者、働き人が、神に対してある関係以上の深いものがあった。
この言葉は、単に神に言われた御言葉を特別の機会に語り出すというものではなく、
絶えず予断の関係が神とエリヤの間にあったことを示す。「私の言葉のないうちは、雨も露もないでしょう」
これはエリヤ自身の言葉によってではなく、神御自身から受けたものであることを確証する。
(2)信仰・・・2~7節
エリヤの予言によってもたらされた飢饉は、彼にも個人的影響を与えた。
しかし神は彼を顧みられた。神の備えにあずかるためには従順に従うことである。
a.ケリテ川に身を隠させたことは、単に準備だけでなく、飢饉の故にアハブは必ずエリヤを
殺そうとするに違いないので保護された。
b.からすに食物を運ばせたことは、神の成功せる働き人となるために、他の面の信仰の必要を教える。
神はからすを創造されたので、神の子達の必要のために食物を運ぶように命令することができたのである。
c.「川は枯れた」・・・7節
エリヤの予言によってもたらされた、もう一つの結果が示されている。すなわち、雨が降らなかったので川が枯れた。
(3)権威・・・8節~16節
神の財源は無尽蔵である。
川とからすは、その時のエリヤの必要に奉仕したが、次に神は一人のやもめを用いられた。
差し迫った状態とやもめと息子の必要について考えてみよ。
やもめは息子と2人で死ぬために最後の食事を準備しようとしていたのであるが、
エリヤは「先ず」私のために小さいパンを一つ作ってきなさいと命令した。聖書より「先ず」という語を
研究してみなさい。「先ず」神の国と神の義とを求めなさい。「先ず」行って、その兄弟と和解しなさい。
エリヤの権威ある言葉に従った時、望みがもたらされた。権威あるエリヤの言葉に従うことは、
やもめと子供に希望をもたらし、生活とその一切の必要が与えられた。彼女は死ぬことはなかった。
(4)力・・・17節~24節
やもめの息子が死よりよみがえる。24節は特別な節である。
我らの生活において証明のあること、恵み、賜物の必要なることを示している。
(5)勇気、信仰、権威、そして力の土台は神の言葉である。17章には5回(主の言葉)記述されている。
すなわち2,5,8,16,24の各節。
★第18章
主イエスキリストの真の奉仕の力と権威、ならびに今まで私どもが努力し、注意をしてきた奉仕の標準をエリヤは示している。
18章には神の原理に関して多くの点を含んでいる。十分注意して幾度も読むことによって悟ることができる。
(1)オバデヤ
a.悪王アハブの神を畏れる僕
b.彼は非常にかたくなな時代にあっても神を畏れるものであった。偶像を拝する王のために働くことを恐れた。
c.その信仰は積極的であった。特に4節と13節を読みなさい。飢饉で水はなく、
すべての動物は死ぬほどであった時、神の預言者100人に食物と水を供給した。これは何を意味するか考察せよ。
特に同じ時にアハブ王は、あちらこちらへ行って、王の動物のため水を探すように命令された時であった。
なぜオバデヤがこのことをしたか疑問に思うが、信仰に限度とか制限はない。
信仰にとって不可能、泣き言は嘲笑される。必ず成される。
(2)エリヤに対するアハブの働き・・・10節
この節は偶像教の王アハブがあらゆる国々にエリヤを探し出して殺すために尋ね求めたことを示している。
(3)神がエリヤを隠された時、彼は神によって守られた。17章3節に戻ってみよう。
神がエリヤにケリテ川に身を隠すように命じられた時、アハブは四方八方エリヤを捜し求めたが発見できなかった。
詩篇91:1~9を読みなさい。そしてコンコーダンスより「避け所」という句の引照を見なさい。
(4)18章12節をヨハネ3:8の下半句「霊から生まれるものもみな、
それと同じようである」の句と比較せよ。オバデヤはエリヤの行動に対して述べている。
主の霊が導くので、ある日はここにいるが次の日はここにいない(11,12,14節を見よ)。
また8章39,40節を注意深く読め。
(5)真のイスラエルを「悩ます者」17~18。
すべての悩みの源は罪である。神より離れて偶像を拝すること。
アハブはエリヤがイスラエルを「悩ます者」であると言ったが、エリヤは王に対して勇敢に、
飢饉の原因はエリヤの預言ではなく、アハブの罪の故であると宣言した。9章9節を見よ。王に対するエリヤの大胆さ。
(6)エリヤの挑戦・・・24節
a.決断 21節
2つの意見~~~中立は災いをもたらす。「あなたがたはいつまで2つのものの間を迷っているのですか。
主が神ならば、それに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。中間の信仰は有り得ない。
b.火をもって答える神を神とする・・・24節
エリヤの時代には火そのものであったが、今の時代には真のペンテコステ的聖霊のバプテスマである。
異言をもって語ることが火を表すのではなくして、失われた魂に対して神の持たれる真の痛みと愛である。
それは内住したまう聖霊より来る。異言を語ることは、完全な聖霊のバプテスマの肉体的、
外形上の証明であって、神に対する働きのために神の栄光と愛を持って私どもの霊が燃やされることである。
失われた魂にとって、我らの愛の中に献身において神の火の働きが必要である。
c.バアルの預言者たちが祭壇に天から火が下るようにとの彼らの努力とエリヤが冷静に祈りの中に神の確信を表現したことを比較せよ。
d.エリヤの祈りと祭壇を整えたことより良い教訓を受ける。
(1)「彼は壊れている祭壇を繕った」30節
真実な祈りは神に対して確信と更に強い信仰が築き上げられる。
(2)「主の名によって祭壇を築き」32節彼自身の功績ではない。
祈りは要求が認められるように土台を作ること~~~併し、主の名によって~~~キリストの義によって。
(3)エリヤは12の石をとった」31節
すべてのことが神に支配されるように、また神の道に進むことを認める。
(4)35節 水は不可能と困難とを表す。神はすべてに勝って偉大である。
(5)エリヤの要求にある3点 36節
a.「あなたが神であること」を今日知らせてください。
b.「私があなたの僕であること」
c.「あなたの言葉に従って、このすべてのことを行ったこと」
(7)エリヤの大いなる信仰41~46
「大雨の音がするから」~その音はエリヤ自身の霊であった~信仰の働き。
エリヤは7回、僕に見に行くように求めた。雲が見えるかどうか。
最初は「何もありません」という答えであった。・・・43節
しかしエリヤの霊に大雨の音が聞こえたので迷わなかった。彼はすでに、アハブに告げるように僕に言った。
「雨にとどめられないように車を整えて下れ」と。44~46
(8)ついに・・・ヤコブ5:17~18を読みなさい。
エリヤは
a.私たちと同じ人間。
b.雨が降らないように3年半の間、熱心に祈った。
c.再び祈った時、雨が降り、地はその実を実らせた。
第19章
1.エリヤの失望 1節~18節
2.エリシャの召命 19節~21節
注1.必ず迫害のあること(迫害の確実性)
「いったいキリストイエスにあって信心深く生きようとするものは、みな迫害を受ける」(第2テモテ3:12)。
アハブの妻イゼベルはエリヤを殺そうとする。
注2.エリヤの短所「自分のために要求した」4節。今までは神の願いを持つ人であり、
神の栄光のために行動した人と思ってきたが、この迫害の時に殺されようとした時、彼は失望に負けてしまったようである。
そして今、己のために要求した。常に神の僕であることを覚えるべきである。
もしも私どもが殺されるべきであることを神が是認されたとしても、私どもは己の楽しみのためではない、
神の僕としてあらゆる状態にあって神の御意の中に、私どもがいなければならないのである。
注3.天使の働き。5節「天の使いが彼にさわり」
ヘブル書1:14を注意して研究せよ。「御使いたちは、すべて仕える霊であって、
救いを受け継ぐべき人々に奉仕するため遣わされたものではないか」。
注4.~「エリヤよ。あなたはここで何をしているのか」(9節~13節)神は私どもが神の御意を探ることを挑戦している。
それはさらに神の働きのために自己を捧げるように様々の方法において我らの生活に対し神の御意が完全にすべて押し入れられるためである。
この場合、神は再びエリヤが失望の霊から目覚めるように一つの質問をもって尋ねた。
神はなお、彼が神のために成すべき働きを持っておられる。
注5. 風~地震~火~静かな細い声・・・11節~12節
最初に3つの自然の力の働き、音、様子が表されている。霊的分野においても、
これらのものに心を奪われるとはいえ、神がいつもこれらの中にあるとは限らない。
静かな細い声で御自身を表された。
注7.~エリシャ~19節
エリシャは忙しい男であった。神が働きのため望まれた時、彼は忙しい男であった。
事務社会においても重要な働きをしなければならない時、すでに忙しい人を見つけるのが良い。
忙しくない人は仕事を延ばし、弁解するが、有能な人は、いつも忙しい人である。
エリシャの弁解とエリヤの答えはすべて非常に興味深い。
これは学生、神の働き人に対し、重要な原理を含み、大切なる研究である。
「私はあなたに何をしましたか」エリシャは単に神の管であり、通路であるが、
真実の働きはエリシャの召命であった。31節の最後の節
「そこで彼は立って行ってエリヤに従い、かれに仕えた」は非常に教えられる点である。
第22章
この章は非常に長いがイスラエル王国の歴史的記録である。
神の御言葉について悟るべき顕著なる原理がここに示されている。
私どもは教会における預言の賜物と同じく、預言の霊について熱心に論争するが、
これはそれである。これらの賜物によって神に用いられる人々は彼らの働きの成就するために非常に重要である。
このことは400人の預言者が偽りの預言をした6節より12節の間に見られる。
ヨシャパテはこれらの偽りの預言に満足しなかった。そこで真の主の言葉を預言する真の預言者がおるかどうかを尋ねた。
先ずミカヤは他の400人の偽りの預言者のように預言したように思われる。それは唯ていねいの意味であるかもしれない。
しかし彼が実際に預言した時あべこべの預言であった。
預言者には大きな責任が要求されている。それは偽りの霊に従ってはならない。実際に主が用いられる預言者が必要である。
先ず第一に真心からの献身をしていなければならない。
常に主の御顔を求め、続いてイエスの血の中に突入し、
如何なる人からもまったき自由であって他の何の影響も受けることのない者でなければならない。