主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。(民数記14章9節)
一、カナン偵察とその報告 (民数機13章) エジプトから出た次の年、イスラエルの人々は、主が与えると約束してくださった地カナンの入り口までたどり着きました。カナンの様子を知るために、モーセは、主のご命令に従ってイスラエル12部族の族長たちを偵察隊として使わしました。その12人の中に、ユダ部族のエフネの子カレブとエフライム部族のヌンの子ヨシュアがいました (1ー16節)
彼らは早速、約束の地に行って40日の間 土地の様子を探り、大きく実ったブドウ一房とざくろやイチジクを持ち帰り、人々の前で自分たちが見てきたことを報告しました。27−29節を読みましょう。
主がイスラエル人のために用意してくださっていた約束の地は、豊かで素晴らしい場所でした。 主は、愛する者に、最善以外のものはお与えになりません。しかし、斥候たちの判断は、そこに住む人々は非常に強く、自分たちには勝ち目はないという、とても悲観的なものでした。31ー33節を読んで下さい。彼らは、そこに住む人々と比べ、自分たちのことをまるでいなごのように小さく感じてしまったのです。
私たちも、この斥候たちのようなときがしばしばあるのではないでしょうか。私たちが示されているクリスチャンの生き方、主と交わり主に導かれる人生は幸いと豊かさに満ちていると、主は約束して下さいました。しかし私たちは、その道に進むことに多くの難かしさを感じてしまい、とても無理だとしりごみしてしまうのです。主から頂くものの大きさよりも、主にに従うことによって出会う困難、失ってしまうかも知れないものの大きさに目を奪われ、落胆してしまうのです。
二、人々の落胆と反抗(14章1−10節)偵察隊の報告を聞いて、イスラエル人たちは、大声で泣き叫び、エジプトに帰ろうと言い出す始末でした。その時、カレブとヨシュアが立ち上がり、言いました。7ー9節を読みましょう。二人が自分たちには勝ち目があると述べた根拠は『主が共におられるから』というこの一点でした。『私たち』が主と共にいるというのではないのです。『主』の方から私たちに寄り添い、共に戦ってくださるのですから、私たちは安心して主に従っていけばよいのです。ところが人々は、自分たちの不信仰を恥じるどころか、二人を石で打ち殺そうと言い出しました。
三、モーセのとりなし(14章11−39節)ちょうどその時、主ご自身が現れ、人々をお怒りになりました。11、12節を読みましょう。彼らを滅ぼすと宣告を宣告をなさった主に、モーセは懸命にとりなしの祈りをささげました。
熱心なモーセの祈りにこたえ、主は、思いとどまって下さいましたが、約束の地を目の前にしながら、イスラエル人たちは、そこに到達するまでに、40年もの間、荒野をさまよわなければならないことになったのです。そして、今いる人々はカレブとヨシュア以外、すべて荒野で死ななければならず約束の地に入ることはできなくなりました。
主は私たちに、何よりも『信頼する』ことを求めておられます。目に見える状況に惑わされるのではなく、その状況の背後にあってすべてを支配しておられる神ご自身を信じることを求めておられるのです。