苦しみの日の祈り

 主は与え。主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1章21節)

一、苦しみの日に主に信頼する。(ヨブ記 1 章、2章)
 ウズという町に住んでいたヨブは多くの召使いや家畜を持つこの町一番の大富豪でした。
また心から神を畏れる正しい人でした。ところがある日、突然の敵の襲撃や災害で、召使い、息子や娘たち、そして 一切の財産を財産を失ってしまいました。ヨブは神を呪ったのでしょうか。いいえ、ヨブは地にひれ伏してれいはいし、こう言いました。『私は裸で母の胎から出てきた。また、裸でかしこに帰ろう。主は与え。主は取られる。主の御名はほむべきかな』ヨブはすべてを失っても、愚痴一つこぼさなかったのです。ヨブの災難はそれだけにとどまりませんでした。今度は全身ひどいできもので覆われ、そのかゆみと痛みは相当のものでした。それでもヨブは『幸いを神から受けるのだから、わざわいも受けるべきべきだ』といい、決して罪を犯すようなことを口にしませんでした。

二、友人たちの非難にたいするヨブの返答(23章8ー14節)
 そのうち、三人の友人たちがヨブを訪ねて来ました。初め三人は、苦しみの中にいるヨブを慰めていましたが、やがて非難し始めました。ヨブがこんなにひどい目に遭うのはのは、ヨブが何か悪いことをしたからに違いないというのです。苦しむのは悪人だけだというわけです。しかし、ヨブは自分の半生を振り返り、いくら考えてもそのような隠れた罪を思い当たる筋がありません。考え抜いた結果、ヨブは、この苦しみは神から与えられた試練であると結論づけたのです。10節のヨブのことばを見ましょう。ヨブは、自分の生まれた日をのろっても、最後まで神を呪うことをせず、苦しみを耐え抜きました。ヨブのことばどおり、神によって試されたその信仰は、まさしく『金』のように強く素晴らしいものでありました。私たちは、どんなに神を信じていても、悲しみや苦しみに遭うことがあります。しかし、それは、神が私たちを愛する故にお与えになる試練であり、訓練なのです。ヘブル12章11節を読みましょう。神は苦しみや悲しみを通し、私たちを神の子供としてふさわしい者に変えてくださるのです。また、その苦しみは、自分一人で耐えるものではありません。必ず神が共にいて、どのような苦しみの時にも、私たちを慰めて下さるのです (?コリント1章4節)。

三、神ご自身の語りかけとヨブの悔い改め(38ー42章)
 友人たちとヨブとの議論の後、神ご自身が嵐の中からヨブに語りかけられました。神は、
ヨブの苦しみの理由を明らかにされませんでした。しかし、苦しみのただ中にあるヨブをあわれみ、心に留めておられることをはっきりと示されたのです。ヨブも、今置かれている苦難に対する説明はなくても、神が自分を確かに顧みて下さることに深く感謝をし、三人の友とむなしく議論したことを悔い改めたのでした。どんな情況の中に置かれても、また、それがどうしてなのか説明がなくても、神の信頼する信仰をヨブは得たのでした。そのようなヨブに、神は前にも勝った祝福をお与えになりました。神は、ご自分に信頼する者には必ず報いてくださるお方なのです。 主は与え。主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1章21節)

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