『平和のきづなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい』(エペソ4章3節)
一、御霊の賜物について(?コリント12章)
私たちが、今こうしてイエスを救い主として信じていることを不思議に思ったことはありませんか。私たちが、イエスを主と告白することが出来たのは、決して私たちの努力によるのではありません。主から与えられた御霊のお働きによるのです。私たちクリスチャンの信仰は、一人一人の心の内に住んでくださる御霊ご自身が芽生えさせ、保ってくださるのです。このことをまずしっかりと覚えておきましょう。私たちの力では、クリスチャンの歩みを一歩も勧めることは出来ません。逆に言えば、へりくだって御霊の声に耳を傾けるならば、だれでも救われ、主の恵みの生活を送ることができるのです。
それでは、クリスチャンがそれぞれ心に与えられた御霊は一人のお方なのですから、クリスチャンの歩みはだれでも同じようなのでしょうか。いいえ、4節を読んでください。
御霊は、私たち一人一人に異なる賜物を与えてくださいました。ですから、それぞれ性格も能力も感じ方も違っていて当然なのです。クリスチャン皆、自分だけに与えられた賜物を用いて、自分だけの方法で主のために働き、奉仕をするのです。このことをパウロはとてもおもしろいたとえを用いて説明しています。12ー26節を読みましょう。私たちの体の器官の一つ一つが異なった働きをすることによって、体全体の健康を保っているように、私たちもキリストの体の器官としてそれぞれの異なった働きを持って、主のご栄光を表すのです。
二、愛によって(エペソ4章1ー16節)
私たち人間は、自分と異なる人をなかなか受け入れることが出来ません。貴方が好きな人(または友人)を一人一人思い浮かべてみてください。趣味も、関心も、考え方も、あなたととても似ているのではないでしょうか。似ているからこそ、努力しないでも、仲良くすることができるのでしょう。でも、主は、私たちクリスチャンにそれぞれ異なる賜物を与え、教会を個性のまったく違う人たちの集まりとなさったのです。そして、キリストの体に連なる者として、互いに一致することを期待しておられるのです。ところが現実には、私たちは、自分と違う人と共に集い、働くうちに『どうして?』と思うことがあるでしょう。反感を感じたり、傷つくこともあるかもしれません。しかし、主があえて私たちクリスチャンをそのような集まりとなさったのには理由があります。それは、私たちが聖霊の働きに頼りつつ、互いに一致を保つために、忍耐して愛を行うためなのです。
聖書の言う愛とは、私たちの好き嫌いの感情を超えたものです。そしてそれは私たちの内にはありません。主ご自身に熱心に祈り求め、与えていただかなければならないのです。主は、クリスチャンの集まりを、その愛を實踐する場としてくださったのです。
16節を読みましょう。私たち個性豊かな集団が互いにしっかりと団結し、愛しあうようにしてくださるのは、キリストご自身です。キリストを見上げ、愛を願い求めながら、教会が一致して歩んでいくことができるように祈りましょう。