私の戦争体験

昭和19年4月鹿児島市にある武国民学校(現在の武小学校)に入学して間もなく戦争が激しく、
防空頭巾と救急袋を肩に掛けランドセルをしょって、血液型と住所氏名を服に縫い付けての通学。
学校では避難訓練からはじまり、教室で勉強が始まっても警戒警報発令で児童は急いで家に帰らされ、
帰り着く間もなく空襲警報発令でB29(アメリカの戦闘機)が飛んで来て防空壕に滑り込み。
10月頃迄は静かな日もあったけど。
それから戦争もだんだん激しくなり年が明けて(昭和20年)益々激しくなり目立つ様な建物が爆撃を受ける様になった。
2年生になって少し落ち着いて来て家族揃ってお布団の上で寝静まった頃B29が市内全域に焼夷弾をまき散らし私は父親に抱かれて防空壕に、その時 は町中が火の海でした。
我が家は防空壕にたまってた水で命も家も助かった。

夜明けと同時に我が家は足の踏み場も無い位やけどで皮膚のただれた人や煙に巻かれて頭がおかしくなった人々、また焼け死んだ方々が運び込まれて来 た。
お昼近くになって叔母が死んだ我が子を抱いて我が家に飛び込んで来た姿も忘れる事は出来ません。
その子は私寄り2歳年下で仲良く遊んだ従兄弟でした。

叔母も煙を吸って声も出ず気力を失っていたので、父は私と叔母を指宿の祖母の家に連れて行った。(疎開させられたのです)
どうせ死ぬのなら親兄弟と同じ所で死にたいと云って父親にしがみついたけど祖母に引き止められ父は鹿児島に帰って行った。

空襲は指宿も同じで私が指宿に来て2ヶ月位立ったある日私の通う丹波国民学校(現在の丹波小学校)が戦災に遭い丸焼け、学校にもいけなくなりまし た。
暫く休校になり2年生の夏休みになり、知覧から特攻隊が片道燃料で敵軍に体当たりするために兵隊さん達が飛び立つと聞いたり、特攻隊に出撃する前 に遠くから来て居られる兵隊を我が家に呼びご馳走を振舞い送り出したりしていた。

広島に凄い爆弾が落とされたとか、長崎にもとかニュースで聞いても自分達も怖い目に遭ってるし、もう当たり前みたいな感覚で聞いていた。

食糧難で家から少し離れた所に祖母がスイカを植えていたので従兄弟とお腹がすいたから今日は静かだし飛行機も全然飛んでないし、スイカを食べに行 こうかとスイカ畑に出かけた。
近くに航空隊の基地があって飛行練習が行われていた所から飛行機が飛び立ちいつになく低空を飛び回り、二人の兵隊が白いハンカチを振りながら私達 の周頭上をを低空でぐるぐる飛び回ってるのを見て従兄弟と二人で手を振って答えたのを今でも鮮明に覚えてます。
此れが65年前の8月15日、戦争が終わった日だったのです。
小学校1年?2年の出来事は72歳になった今でも昨日の様に脳裏にハッキリ残ってます。

終戦後、沖縄、台湾、樺太 朝鮮、満州から親戚が命空殻引き上げて来て我が家は大家族。
お釜が足りず鉄瓶でもご飯を炊き、ぞうきんバケツ迄が洗面器として使われたりでした。

まだまだ書き残したい事はあるけど いつか全部まとめて孫 曾孫に残しておきたいけど、またの機会に少しづつ書き残そうと思ってます。

広島、長崎 また沖縄の様な地上戦には遭ってないけど戦争は絶対にあってはならないことです。

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