神は正しく、正義を愛される

主は正しく、正義を愛される。(詩篇11篇7節)

一、神は義である。(ヨシュア 7章1節)
 イスラエル人は、あの強固な町エリコ攻撃に勝利を収めました。しかし、たった一人のアカンという人物の罪によって、主の怒りがイスラエル人全体に臨んだのです。義なる神は隠れたアカンの罪を見過ごすことはなさいませんでした。
 私達自身も、見て、欲しくなり、隠してしまうという罪を犯しやすいものですが、どんな罪も、神の正しさのゆえに嫌われ、裁かれるのです。神の前に悔い改め、従順な信仰を持ちたいものです。

二、神は真実である。( 2ー9節)
 さて、イスラエルの人々はエリコ攻略の次にアイを攻めることになりました。愛を偵察した者たちは、アイの人たちはわずかなので攻めるときには2、3000ほどで充分勝てるだろうと予測しました。
 ところが、アイの町では大敗北という惨めな結果を味わわなければなりませんでした。
そのような中で、ヨシュアは深く悲しみ、落胆し、主の前に長老たちと共にひれ伏して祈りました。そして、主の答えを待ちました。ヨシュアは、神の栄光のために、真剣に神の民の将来を考えていたのです。

三、神は聖である。(10 ー26節)
 ところが、主のお答えは『イスラエルは罪を犯した』ということばでした。そのために敵に敗北したのだから、まずその罪を取り除き、民をきよめなければならない、と言われるのです。ヨシュアにとって、思いもよらないことでした。
 実際はアカンが罪を犯したのですが、個人の罪は全体の罪であり、罪の結果も全体に及ぶのです。これは私たちも重大なこととして心に留めなければなりません。欲望や妬み、物質主義が、神の御心を悲しませます。それは、私たち自身の生き方をもダメにしてしまうのです。アカンは、ちょうどアダムやエバのように、罪を犯してしまいました。そして
『欲が孕むと罪を生み、罪が熟すると死を生みます』というヤコブ?章15節のように、アカンはアコルの谷で裁きを受けたのです。
 私たちも、このように『罪を犯すことの重大さを考えずに歩んでいることが多いです。しかし、アカンの姿を見ると、罪がどんなに恐ろしいものであるかが分かるでしょう。私たちは、心のすきまに様々な罪の誘惑を受けますが、信仰の力によって、それに打ち勝つことができるように祈りましょう。?テモテ6章6ー10節を読みましょう。また、神に喜ばれる心で歩むためには、神の御霊の力が必要です。神を信じている者に与えられている『聖霊』によって強められ、祈りつつ歩んでいきましょう。

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