主題 神は愛である。
神は罪を憎んでも、罪人を愛し、救いの道を開いてくださった。
聖句=神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてさいました。ここに、神の愛が
私たちに示されたのです。 (?ヨハネ4章9節)
*ヨハネ3章16節と同じ趣旨で、特に三つのことばが強調されています。
第一は、ひとり子の派遣です。普通宗教は人間が神を求めた努力の軌跡ですが、福音は神が失われた人間を救うために人となられたよい知らせです。神はひとり子をこの世にお遣わしになりました。
第二にいのちの付与です。神のひとり子であるキリストは人間の姿をとってこの世に来られただけではなく、十字架と復活によって人間の罪をゆるし、永遠のいのちを与えられたのです。ここで『いのち』とは永遠のいのちのことです。
第三は、神の愛の宣言であります。神の愛は象徴的な観念ではなく、キリストの十字架によって示された現実です。
ヨハネは、その愛を宣言し、互いに愛し合うようにと勧めるのです。
*神は、人間の罪をさばかれるが、また罪の中にある人間を愛しておられます。その神の愛と互いに愛し合いなさい。
という勧めは、イエスによって説かれ、ヨハネによって強調されています。私たちも、神に愛されている者として互いに愛し合うように勧められているのです。
*聖書箇所=?ヨハネ4章7−21節
一、愛は神から出ている(?ヨハネ4章7−11節)
私は人を愛することができない、とよく聞かされます。正直な告白です。人間は誰でも真実に他者を愛する事は出来ません。その故に、互いに愛し合いましょう、といわれても戸惑うだけです。しかし、愛は神から出ていると分かると、話はまったく別です。神に愛されているが故に他者を愛する事が出来る。神から愛を受けているので、隣人を愛することがてきるのです。『愛する者たち、神がこれほどに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです』(11節)。この順序が大切なのです。
二、愛は神の臨在を示す。(12−17節)
神を見た者はいない。主イエスは『こころのきよい者は幸いです。その人は神を見るからです』(マタイ章8節)。と言われました。ヨハネは『いまだかって、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです』(12節)。と説いています。いずれも『心がきよくあること』『互いに愛し合うこと』と人間の在り方が問われています。愛は神から出たものであるが、その愛によって互いに愛し合うことが求められているのです。
愛し合うとき、神がそこに臨在されます。『神は私たちのうちにおられ』とは一人一人のうちに住まわれる、とも読めますが、むしろ、愛し合う者たちの間に臨在される。と解釈するのがよいでしょう。神は、聖徒の愛の交わりの中に臨在され、聖霊の働きによって、私たちはそのことを確信できるのです。それが、聖徒の交わりである教会の本当の姿なのです。
三、愛は神の平安を与える(18−21節)
『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します』(18節)。人間の魂には、深い不安があります。それは、何に起因しているのでしょうか。一つは、神のさばきです。罪を犯している人間は、刑罰を恐れている(18節)。それは死に直面したときに多くの人々が経験する深い恐れからも、推測できます。もう一つは、人間の不信です。互いに信頼できない人間は、他人から見捨てられることを恐れています。彼の心を支配している者は、愛ではなく不安と恐れです。
しかし、神の絶対の愛に支配される時、それまで私たちの魂を捕らえていた不安と不信から解放され、平安と愛に満たされるようになります。そしてその故に、神を愛する者は兄弟をも愛するのである。神が愛であることは、神の優れた御本質であると共に優れたクリスチャン倫理でもあります。そこで、互いに愛し合いなさい。という勧めが繰り返し強調されるのです。
(祈りましょう)