神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに愛があるのです。(?ヨハネ4章9節)
一、愛は神から出ている(?ヨハネ4章7ー11節) 私は人を愛することができない、とよく聞かされます。正直な告白です。人間はだれでも真実に他人を愛することはできない。その故に、互いに愛し合いましょう、と言われても戸惑うだけです。
しかし、愛は神から出ていることがわかると、話はまったく別です。神から愛を受けているので、隣人を愛することができるのです。『愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです』(11節)。この順序が大切です。
二、愛は神の臨在を示す(12ー17節)
神を見たものはいない。主イエスは『こころのきよい者は幸いです。その人は神を見るからです』(マタイ5章3節) と言われました。ヨハネは『?ヨハネ4章12節と説いています。いずれも『心のきよくあること』『互いに愛し合うこと』と、人間の在り方が問われています。愛は神から出たものですが、その愛によって互いに愛し合うことが求められているのです。
愛し合うとき、神がそこに臨在される『神は私たちのうちにおられ』とは一人一人のうちに住まわれるとも読めますが、むしろ、愛し合う者たちの間に臨在される、と解釈するのがよいでしょう。神は、聖徒の交わりの中に臨在され、聖霊の働きによって、私たちはそのことを確信することができるのです。それが、聖徒の交わりである教会の本当の姿なのです。
三、愛は神の平安を与える(18ー21節)
『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します」(18節)。人間の魂には、深い不安があります。それは、何に原因しているのであろうか。一つは神のさばきです。罪を犯している人間は刑罰を恐れている (18節)。それは死に直面した時に多くの人々が経験する深い恐れからも、推測することができます。もう一つは、人間の不信です。互いに信頼出来ない人間は、他人から見捨てられることを恐れている。彼の心を支配しているものは、愛ではなく不安と不信です。
しかし、神の絶対の愛に支配される時、それまで私たちの魂を捉えていた不安と不信から開放され、平安と愛に満たされるようになるのです。そして、その故に神を愛する者は兄弟をも愛するのです。神が愛であるということは、神の優れたご本質であるとともに優れたクリスチャン倫理です。そこで、互いに愛し合いなさい。という勧めが繰り返されるのです。