祈りによる成長

 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイ7章7節)

一、祈りの力(ヤコブ5章16−18節)
『真の信仰は祈りなしにはありえない』と云われるように、私たちにとって祈りは信仰生活の重要な部分を占めてい ます。それは、祈りが、私たちを神に近づけるものであり神と親しく対話することであるからです。祈るために自分を整えましょう。第一に、神との対話に意識を集中させる。不安や、思いわずらいがあるなら、ますます熱心に祈りましょう。第二に、自分の必要が何であるかをはっきり自覚する。奉仕のために祈るが、また奉仕が豊かな祈りを生み出すとも言えます。また奉仕が豊かな祈りを生み出すとも言えます。第三に、神の憐れみのゆえに祈れることに感謝する。ヤコブも『義人の祈り』と書いてありますが、それは自己の功績ではなく、キリストにより罪赦された者としての義です。第四に、困難な状況にあっても神が聞き入れてくださることを確信して祈ることです
 祈りは、いわゆる念力ではないから、祈る私たち自身あるいは祈りのことばそのものに何か魔術的な力が潜んでいるのではありません。祈りは『これによって、日々に神の恵みを受けるものである』と言われ、神の恵みと御力を受ける最大の手段です。『祈りが働く』は、祈りはちからあり、大きな結果をもたらすという意味に取れます。

二、本当の祈り(列王記上17章1−7、18章1、16−40節)
 エリヤの預言のとおりに雨がふらず、干ばつは深刻になって行きました。アハブ王は周辺諸国にまでイスラエルを惑わす者ととして手配し捜しましたが、その間彼はひとりのやもめのもとで匿われていました。三年たちエリヤはアハブの前に現れ、イスラエルの民を前にして、バアルの預言者と対決します。
 バアルは、偉大なる嵐の神であり、豊作を支配する、とされていました。バアルこそ雨を降らせる神であることを示そうとして、その預言者たちは、祈りました。彼らの祈りには、いくつかの段階があります。即ち、バアルの名を呼び、踊り回った、ますます大きな声で呼ばわり、剣や槍で自分自身を傷つけた。祈りの熱心、人為的な精神の高揚と恍惚があります。しかし、人がいかに自分を高めたとしても、その神が真の神でなければ、それは空言に過ぎません。
 エリヤは、民を集め、主の祭壇を建て直しました。そして、イスラエルの神である主に祈ります。その祈りは、簡潔であって自己陶酔ではなく、静かであるが大胆です。彼は、神のみことばによって行動し祈る者として、神が真に礼拝すべきお方であることが表され、アハブ王が持ち込んだバアルと主との間をさまよう神の民が悔い改めることを求めているのです。

* 主題=祈りによって成長する。
   
 聖書箇所=ヤコブ5章16−18節 列王記上17章1−7、18章1,16−40節

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