礼拝する

 私は生きている限り、主をほめたたえよう。(詩篇146篇2節)

一、主に聖別する(?歴代29章1ー19節)
 ヒゼキヤが南王国ユダの王となったのは、25歳の時でした。王となってまず最初にしたことは、真実の礼拝のために、その民を聖別したことでした。
 その頃、人々は、主なる神をないがしろにし、その神を礼拝する場所であった神殿に
異教の神々を礼拝するための道具まで持ち込んでいました。このような時に、ヒゼキヤ王は、宮の修理をさせ、神に仕えるべき祭司やレビ人たちに『今、あなたがたは自分自身を聖別しなさい』と命令しました(5節)。まことの神に背を向けて、邪悪な生活に日を過ごしていた祭司やレビ人たちに、まず自分自身を清め、神に自分をささげるように勧めたのです。パウロはローマ書12章1節で『あなたがたのからだを神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です』といっています。まことの礼拝とは、あなた自身を『神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげ』ることなのです。
 ヒゼキヤ王は、宮を修理してから、真の神を礼拝するのにふさわしくない物を宮から出してしまうように命じました。それで祭司たちは、宮にある汚れた物、偶像礼拝に使った物などを、全部捨てました』(16 節)。イエスも同じように、エルサレムの神殿にいた商売人を追い出して、宮をきよめられました。
 私たちの体は『神の宮』(?コリント6章19節)です。私たちの内に、まことの神を礼拝するのにふさわしくないものがあるでしょうか。今それを全部捨てて、まことの神を礼拝しましょう。

二、主にいけにえをささげる(?歴代29章20ー24節)
 ヒゼキヤ王は、民を聖別し、神殿を聖めただけではなく、神に背いた罪を赦していただくために,いけにえの動物をささげました。礼拝する時には、罪の贖いと、主への献身を表すために、いけにえの動物をささげることになっていたのですが、ヒゼキヤ王の前の王は、まことの神を礼拝せず、生贄をささげることもしていませんでした。そこで、ヒゼキヤは、町の指導者たちを集めて、主の宮に上がり、主の祭壇の上でいけにえを捧げたのです。
 私たちの罪は、動物のいけにえによって完全に赦されることはありません。しかし、神の御子であるキリストが十字架にかかられた時、私たちの罪は完全に赦されました。このイエス・キリストを信じる者は、すべての罪を許されて、神の前に出ることができます。罪のない完全な主キリストが犠牲になってくださったので、私たちは、動物の犠牲をささげなくて良いのです。ですから、私たちの魂と体をささげて礼拝しましょう。

三、主をほめたたえる(?歴代 29章25ー30節、ヨハネ4章21、24節)
 ヒゼキヤ王は、人々がいけにえをささげて、礼拝をする時、主をほめたたえました。シンバル、琴、ラッパの演奏とともに、聖歌隊は、美しい歌声で主をほめたたえ、人々はひざをかがめて、主を礼拝しました。
 主イエスは、サマリヤの女と話された時『神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません』と言われました。神の霊に満たされ、神の真理によって心から礼拝するのです。そのために、自分自身を主にささげ『霊とまこと』によって主なる神をほめたたえましょう。

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