熱心に調べる

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かにすまわせ (なさい。) (コロサイ3章16節)

Let the word of Christ dwell in you richly; in all wisdom teaching and admonishing one another with psalms and hymns and spiritual songs, singing with grace in your hearts unto God. (Colossians )

一、みことばを聞く(使徒17章10、11a)
 使徒パウロは第二次伝道旅行の途中、北ギリシャのマケドニヤ地方に入り、ピリピ、テサロニケなどを経て、ペレヤの町にきました。おおよそAD50年頃です。
 パウロはどの町に行っても、まず、その町に住むユダヤ人たちの会堂で語りました(2節 旧約聖書を知っているユダヤ人は、『聖書で預言されているメシヤはイエスのことである』という初代教会のメッセージを真っ先に聞いて信じることができるはずの人々であったからです。事実、そのようにして各地に教会の基礎が築かれていったのです。逆にクリスチャンを迫害するようになるユダヤ人も多数おりました。パウロはテサロニケでは迫害を経験していました。
 しかしペレヤのユダヤ人は『素直』(新共同訳)で『良い』(11節) 人たちでした。パウロを通して語られる『みことば』を熱心に聞きました。テサロニケでは『聖書に基づいて……論じたパウロも、ペレヤでは説教として語ることができ、人々はパウロのことばを『御言葉』として受け止めました。神に任命された正式な教師から語られる説教は、本来批判や論議の対象とすべきではなく『語られる神のことば』として素直に受け止められるべきです。この点でペレヤの人々は模範的でした。

二、聖書を調べる(使徒17章11b)
 ペレヤの人々は、パウロのことばを巡って論じ合うことはしなかったが『はたしてそのとうりかどうかと毎日聖書を調べた』。この差は大きい。
 テサロニケのユダヤ人のある人たちは『ねたみ』(5節) が判断の土台となりましたが、ペレヤのユダヤ人は、聖書に照らして誤りのないことであれば心から受け入れようという謙虚な思いと、聖書こそすべての土台であるという判断と、その聖書に毎日接する習慣をもっていたからです

三、みことばを蓄える(使徒17章12節、ヨシュア1章8節)
 聖書辞典も語句大辞典もないこの時代に、ペレヤのユダヤ人はどのようにして膨大な聖書を調べたのでしょうか。ヨシュア1章8節にあるような命令にこたえて、みことばに日々親しみ、心に蓄えていたので、そうした聖書全体の知識を前提として、パウロの説教が正しいことを日々の聖書研究によって確認できたのでしょう。その時に、彼らは『信仰にはいった』。聖書を通して聖霊なる神が働いてくださったことは間違いないありません
 聖書は神のことばであり、私たちを救いに導く。聖霊は聖書とともに働かれる。しかし私たちが聖書を開いて日々読まなければ (本棚に飾ったままでは)、宝は埋もれたままです。

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