イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。(ヨハネ2章11節)
新約聖書で、イエスが行われた奇跡は「しるし」とも言われ、カナの婚礼に置いて水を葡萄酒に変えられたことは『最初のしるし』と記されています(ヨハネ2章11節)。奇跡は単なる不思議な出来事ではなくイエスがメシヤであることの『しるし』でした。
一、最初の奇跡(ヨハネ2章1−5節)
ある時、ガリラヤのカナで行われた結婚式にイエスは弟子たちと出席されました。イエスの母マリヤも出ていたところをみると、親戚か親しい友人の結婚式だったのでしょう。マリヤは単なる客ではなく,接待側だったのかも知れません。
パーテイの途中、葡萄酒がなくなりました。お客を招いているのですから、あってはならない失礼なことだったのでしょう。マリヤはイエスに訴えます。突然のことで、イエスは母に率直に自分の気持を伝えますが、それでも母の信頼におこたえになりました。主催者側の切迫した事情もおわかりだったのでしょう。
二、水をぶどう酒に変える(ヨハネ2章6ー10節)
イエスは、そこにおいてあった宗教上の清めの水を用いて、それを葡萄酒に変える奇跡を行われました。
奇跡の詳しい手順は記されていません。ただ、きよめの水をお用いになったことに、宗教的に厳粛な意味合いがあることが暗示されてはいるようです。ともかくイエスはその場の人々の窮状を救い、結婚式の喜びと祝が途絶えないよう配慮されたのです。
三、証拠として『しるし』(ヨハネ2章11節)
イエスが行った奇跡は、単に人々の必要を満たすためのものであっただけではありません。と言っても、もちろん自己顕示欲からあれこれ面白おかしく自然の現象を無視してみせたのでもありません。奇跡は、手品や奇術とは違うので、何らかの種があって人々を煙に巻くものでもありません。魔術と違うので、悪霊やオカルト的な背景があったり、本や映画の中での作り話でもありません。
奇跡は多くの場合、人々の窮状や必要に対して神が深い哀れみをもって、ご自身が定められた自然の法則を一時止めてでも、神の力と権威により超自然的な事を行うことです。
単に偶然がうまく重なり、タイミングがぴったりと合って『超自然的なこと』が行われた
、というのではなく、自然の法則からすれば絶対に起きないような『超自然』そのものがその場限り特別に行われた、ということです。
イエスは、ここで初めて奇跡を行い、ご自分が自然を支配する力のある創造主なる神ご自身であることをお示しになりました。その後の公生涯における奇跡にはみな、このような意味があります。ですから福音書の記者ヨハネは、イエスの奇跡を『(証拠としての) しるし』と表現して、奇跡の意味を教えています。
*主題=主イエスは神の子としてのしるしを示されました。