霊の感化(辻田 由三郎)

ある夏の午後、天井の低い私の家、午後の陽ざしは庭の木々の青さに幾分柔らげられてはいたけれど、シットリと汗ばむ程でした。師は、其の白色の顔を、そして其の部屋に不釣合いの大きな身体を座布団の上に座られて、東向きに机によられていた。不思議なる神の御臨在と、先生の御姿の一種の静けさの中に思い出されます。

師は、よく「進め、主イエスの兵士等はー」を好まれました。 今、師の心が私の心に生活の糧とって、生きて居るのです。師の御心と申しますか、思想は信仰に依る「前進」にあった。其の師 生涯、己が命のある限り、主を讃美して又よりの感化が私の心の中に大きく渦を巻くのです。 総て此の世的なるあらゆる枷を乗り越えて、主よりの喜びに己が心の霊を神との交りにまかせ得る 平安を与えられて居る事は、主なる神に依る「前進」、主イエスの十字架が私の日々の生活の中に進むのです。

昭和三十九年二月、生駒の地に足を進めなかったならば、(即ち不思議なる神のはからいの中に不思議なる主の導きであり、総て之をこそ師よりの感化の中に主イエスの真の愛を知らされる為でした。)

師との此の世に於ての出合いは僅かな日数ではありますが、己が心の霊の交りは永遠なのです。永遠の命のそれであり、主イエスの救いと、共にある永遠なるものなのです。

師こそ我が心の大感化人なのです。

やがて、御国に着きなば師の御足の洗足をさせて頂きい思いなのです。

京都救霊会館 郡山家庭集会所 薬剤師

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