福音のいくさは日本でも韓国でもこれからです。
先生にはまだまだ仕事が残っていたことでしょう。
私はクート先生が召されたのは残された仕事の何百分の一か何千分の一を私達に分担させようとの神のおぼしめしと思っています。いつの頃だったか京都に西陣ペンテコステ教会というのがありました。
あの頃紫野に住んでいた私はよくお宮の境内で開かれた天幕伝道に参加しました。その頃のクート先生は元気一杯でろばの骨をふりかざしたサムソンのように力に満ちておられました。私もその頃疏水の水に沈められて先生から洗礼を受けたのです。昭和も五年になって私は生駒聖書学院に入学しようと数回参上しましたが何時もご不在で知人もなく志を得ずして今日に至っています。
大平洋戦争の直前私は四国高松を訪れた際、一人の婦人宣教師は日本に残るといってその時分のまずそうなめしに食用油をかけて食事をとっているのを見て敬服にたえませんでした。戦争になってから大阪拘置所に出向いた時眼にうつったものは外人の婦人宣教師が当時囚人のかぶった深編笠に捕縄をかけられた出廷風景でした。
堺の大阪刑務所には三千人を越す受刑者が収容されていましたが独房がたくさんあって、火の気がないので凍傷にかゝる者が多くその光景は到底みなさんには想像もつきません。独房の中には宣教師も牧師もいました。まだ二十才を少し過ぎたばかりの若い青年伝道者もいました。
柿色の囚人服をつけ丸刈りの外国人が私がギリシャ語を教えていたゞき若き日の賀川豊彦を神戸の新川で援助されたマヤス先生だと解るまでには少し時間を要しました。私は基督教徒たることをかくしてもいませんでしたし出来るだけのことをさせて頂きました。
今日本は経済大国をほこっています。
キリスト教に正面から反対する人はいないでしょう。しかし、迫害のないキリスト教があろう筈はないと思います。戦前はキリスト教は必ずしも歓迎されたのではありません。
しかし、クート先生はめざましい伝道をされました。私が見たかったのは戦時中のように大きな迫害の中での先生のお働きでした。
しかし、先生が安らかに主のみもとに召された今、その任務は弟子たち一人一人にかけられているのだと思います。
伝道しましょう。
大東市 公務員