二月二四日(四四年)学院において教師会のあった最中のことです。新学期について協議をしていたのですが、渡来中のカップ先生とどうしても連絡をとらねばならぬ事情からロングビーチに在 宅中のカップ先生に電話をかけることになりました。米国時間ではそれが夜中の一時頃のことだということです。クレメンス先生がカップ先生と応対されたのですが、クレメンス先生が席に帰られると静かに「クート先生が召されたそうです」と一言語られました。一瞬沈黙の時が暫くつづきました。
やがて席上年長者の先生が「とうとうクート先生も召されましたね」と漏らしました。その言葉はクート先生への思慕する心を投げかける言葉であると共に私共をより新しく自覚させられた言葉でもあったのです。しかし、やはり私には実感として来ませんでした。自分を疑う気持でその夜を過しました。
翌日確かな連絡がダビデ先生から(クート先生ご子息) あったであろうと思い学院へ行きました 自分を疑うような気持でいる私に決定的な断はダビデ先生からの電報によって下されていました。私は息をのんでしばらく釘付されたように棒立になりました。しかし直ぐに、取り乱しているぶざ まな私を先生は笑っていられるように思れましたので心を持ち直しました。
先生は信仰の人でした我々から見たら先生はまさに信仰の巨人でありました。私は思い出します。何年か前に近畿、中部地方を襲った伊勢湾台風の時は学院も又大変な被害を受けました。事務所を始め各家屋の屋根ははがれ土手がくずれ、松の木が倒れ、また枝々がねじ折 られ、その散乱は我々を茫然とさせました。先生はその時韓国伝道の最中でした。
数日して先生は帰られ事務所裏の散らされている松の枝をかたづけていなさる時、私は先生を訪ねてまいりましたその時顔を合せるなり、先生は私に「ひどかったですね、先生」と言わせませんでした。先生の方から「ハレルヤ、感謝します」と語りかけられたのです。そのお言葉によって私の心をも先生は主のいまし給う所に私共の心がある時悲しみを乗り越えて新しい地に進入することが出来ます。しかし先生の身近にあって教えを受け、薫陶を受け助けを受けた者として数限りない思い出が走馬燈のように行きめぐります。
十五年間の先生のこまごました点までが記憶に甦ってまいります。ですべては記憶のフイルムにしか過ぎません。やっぱり一昨年十一月下旬、ダビデ先生に伴なわれ新大阪駅を立たれたのが先生と最後の別れになりました。あれから二年余りを過ぎましたが、その僅かの時間において先生の多年の御恩に薄情であるとし たらと思う時、私は恐れます。一面記憶の曖昧さに不満を覚えますが、どうしようもありません。 只私なりに先生からいただいたものをよりよく活かして用い主の御業に励んで居ります。
「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よその騎兵よ」エリヤの如く正に先生は神の人達の中で 戦車のようでした。我々のために素晴しい前衛であられました。後日、カップ先生が、先生は召される寸前、「前進」と語られたと云うことですが、そのお言葉は我々を最後の最後まで指揮し、しったしているように響いてきます。
私は、「モーセと共にいたようにあなたと共におる。」との御言を信じ、前進したいと思っています。
生駒キリスト教会 牧師