不屈の斗志(長曽我部 聰)

昭和二六年八月三〇日、その日始めて私は学院の地を踏みクート先生に御挨拶するため校舎二階に上っていった。クート先生は新学期の準備のため、一人の学生と共に畳のとりかえをされていた白いシャツを汗にベットリぬらし太い声で「ハーイ、イラッシャイ、私は生駒クートと申します。」 と汗だらけの太い手を出して握手を求めてこられた。

その時受けた第一印象が今もはっきり思い出される。ガッチリした風貌からにじみ出る不屈の斗志、すごいエネルギッシュな行動、この印象は その後三年間の学院生活にどれほど多心化をおよぼされたことであろ
その不屈の斗志は長い苦難の日々を戦いぬいてこられた信仰が風貌に刻み込まれたことであり、すごいエネルギシュな行動、この印象はその後三年の学院生活のどれほど多くの感化をおよぼされたことであろう。

その不屈の闘志は長い苦難の日々の戦いぬいてこられた信仰が風貌に刻み込まれたことであり、そのエネルギシュな行動は主の愛し主にひたすら奉仕の信仰からにじみ出てきたものである。毎朝のチャペルで右手のコブシをふり上げ、同時に右足を踏みならして「必らずッ、必らずッ、主はなし給う。」と心をつきさす様なするどい説 教に、もんくなしに「信仰によって、」という思いが聞く私共の心に重く深くしみこんだ。

教室での講義は実に深くまた熱気をおびていた。学院に入る以前御霊に満たされた教会にいた私だったがクート先生の深い聖書講義で全く今生れたみどり子の様に、また深い眠りから覚めた様に生々と私 の霊はおどった。先生は講義に熱をおびてくると顔を紅く、机をゆりうごかし生徒一人一人をにらみつけるように見まわし、「ェイメンでしょうか」の連発に心の底まで見すかされる様な気がした。

しかし師はいつも厳しい授業ばかりではなかった楽しい授業が一つあった。伝道論の時間である。その時間のうちに路傍練習と言うのがあって校庭で行列をつくったり、輪になったり、師が先頭に立って大きなアコディオンをひきながらリードされる。この時ばかりは始終にこにこといかにも楽しそうに導いておられた。まだ大阪救霊会館がなかった頃のことである。

学生時代には勿論、卒業してからもしばらくは個人的なことでクート先生に近づくことがむつかしかった。先生の方では心を開いて何でも話しなさいと言われるけれども、師の信仰があまりにも大きく感じ、またいつも忙しそうにしておられるし、またこちらが話さない先に一を聞いて十を知ると言った様に先走って受けとられるので聞いてもらおうと思ったことも言わずじまいに終ることが度々あった。

しかし師に接する程に、師の人間的なこまかい心づかい、子供の様な単純な喜び様私室に於ける家族と遠く離れた寂しい生活等の一面にふれて近親の感にひしひしと迫られることも あった。卒業後京都救霊会館を責任する様になった時、牧師館がなかったので、私達家族の住居と集会所 をかねた場所のために一緒にてくてくと歩き廻ってくださった。もう切りあげましょうと度々私は言ったが、終日歩いてくださった。忙しい時間を割いた貴重な心づかいに心から感謝した。

また特別集会にお招きしての帰りに、柿一籠おみやげにさしあげた。師はニコニコして大切にかかえるようにして帰られた。その後しばらく会う度に「あの柿はおいしかったわ。」と言われた。度かさなると「またほしいわー。」と言うさいそくの様にも聞えてきた。また伝道の相談事などでクート先生のホームを訪れた時など机に寂しく立てられた師の奥さん、 息子ダビデ先生の写真を見て、一日の忙しい時間から解放され私室に帰った師の心に幾年間も家族から遠く離れた寂しさが幾度となくしのびよってきたことかと思って胸のあつくなるのを覚えたこともあった。

今は天に凱旋された師の地上にのこされた信仰の足跡が、その感化を受けた多くの方々の手によ って生々しく書き集められることは、師の信仰が多くの方々を通して今なお活き働いていることを覚えて感謝である。

生駒聖書学院舎監 高田キリスト教会 牧師

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