英国の一信仰家庭に生れた一青年は一生の将来を考えた時、世界は広く其の視野も広かったに相違ない。
「人間至る所に青山あり」、この太平洋の一角、小島国に心をひかれ、神戸市に支店をもつ英国の石鹸会社の事務員として出張のため単身シベリア鉄道に身をゆだね亜細亜大陸を横断し日本海を渡って赴任したのがLW・クート先生である。この一青年が、やがて「日本にペンテコステを、イエスの来る時まで」を揚げ、日本ペンテコス テ教団の創始者であり、生駒聖書学院を創立し、単身以て信仰により日本の救いのために多くの有能な福音の使者を生み出すようになったのを始めは誰が予知したであろう。
クート先生たりとも同 じ人である人生の成功を夢見て出発されたのであるが、凡てを知り給う万軍の主はこの青年、LW.クートを御手の中に置かれ、この一小島国日本の救霊の御業を成されたのである。「主の御手にありし、カラシ種、クート師」クート先生は卒直で主にある人を愛され、特に献身者を愛した。
しかしそれは人間的でなく献身者の霊とその使命遂行を愛されたのである。故にきびしかった。先生がよく言れた言葉は、「私は無理様」です。と、一度主の示しを受けると信仰に由って万難を排して祈り遂行された。即ち不可能を引き受けて信仰に由て不可能と見える事をも成就に導いた勝利の人であった。故に或る時は誤 解を招くこともあった。しかし「私のために人々があなたがたをののしり……様々の悪口を云う 時は幸である」(マタイ五章二十一節)
この御言葉は、クート先生にも成就したのである。
今、先生は与えられた路程を全うし示された事を忠実に守りぬき主の御許に安らかにいこはれて居られる。そして生駒聖書学院は着々と献身者が育てられ国内は言うに及ばず、 主の指ざし給う所、 全地のはてまでも主の御名による恵の福音をたずさえ行く準備が進められているのである。
私がクート先生を知るようになったのは昭和七年の夏、ロサンジルス聖書学院の夏期休暇中カリホルニヤ洲 オークランド市で私が単身野外説教をこゝろみていた頃、ペンテコステ集会に出席しクート御夫人のメッセージと日本のために求祈されたのに心打たれ自分の使命を告白し、日本のク ート先生と交通の道が開かれ、昭和八年七月に帰国、神戸港にてクート先生の出迎えを受け、生駒書院に身を寄せることになった。
其の年は戦前、第二期卒業式の直後で学生はほとんど帰省していたので御奉仕は大阪市を中心に各所に伝道所があるので毎夜のようにクート先生はアコーデオンを持って路傍に立ってキリストを証しして救霊、たゞあるのみであった。
第一期卒業生が主の示しにより、ぬかたに伝道の業を起し会堂建設を初め、土台を入れて祈って居るとクート先生は直ちに主に求め会堂の完成を助けたことがある。又、終戦後は今の大阪救霊会 館旧館の土地が主に由って示されるや、主の御手のある所を求めて祈り、ごみ捨場を主の栄光の所 と信じ万難を排し大阪救霊会館を実現された。其の外先生の奉仕の業は残って救霊が進められ、リ バイバルを起しつゝある。
クート先生の名を知る人は少ないかもしれないが与えた事を成し遂げさせられた主こそ知り給う 主の御名は永遠にほむべきかな!
真イエス教会牧師