愛のうちを歩みなさい。(エペソ5章2節)
ヨハネはペテロと同じく、イエスの側近の弟子の一人です。ペテロが弟子たちを統率する『行動の人』とすれば、ヨハネは思想的に深い福音書を書いた『黙想の人』と言うことができます。また、『愛の使徒』とも呼ばれています。しかし、、この『愛の使徒』も一夜にしてできあがったのではありません。その課程を見てみましょう。
一、ヨハネ召命(マルコ1章16−18節)
青年ヨハネにとって、イエスとお会いした経験は忘れることのできないものでした。バプテスマのヨハネから『見よ。神の子羊』と言われた時、イエスについて行き、アンデレと共にイエスの話を聞きました。それによって、彼は、イエスがイスラエル人全体が待ち望んでいたメシヤ (救い主) であることを知ったのです。その時、ヨハネの心はどんなに喜びに溢れたことでしょう(ヨハネ1章35−40節)。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりで網を繕っているヨハネに、ついて来るようにと言われました。ヨハネは兄弟ヤコブと共に、父や雇い人を捨ててイエスに従ったというのは、イエスにそれだけの魅力と価値を見出していたからでしょう。すなわち、イエスを神の子と信じ従ったこと。これがヨハネの生まれ変わりの経験でした。
二、古い性質のヨハネ(ルカ9章51−55節)
新しく生まれ変わったと言っても、即座に古い性質がなくなるわけではありません。
正義感が強いのはよいのですが、ヨハネの場合、いささか度が過ぎていました。サマリヤ人がイエスを受け入れないのを見て、彼の怒りは火のように燃えました。それは、イエスからたしなめられるほどのものだったのです。イエスから『雷の子』と呼ばれたのは、無理のないことでした(マルコ3章17節)。
またある時は、天国へ行った時の報賞を自分たちだけで独占したいという利己主義をあからさまに示しました(マルコ10章35−41節)。このようにヨハネには古い性質が残っていたのです。
三、イエスに愛されるヨハネ(ヨハネ13章23節)
このような荒削りのヨハネを、イエスは心から愛されました。ヨハネは自ら書いた福音書の中で、自分のことを「イエスに愛された弟子」と呼んでいます。ヨハネは、自分に注がれるイエスの愛を感じとっていました。最後の晩餐の席で、ヨハネはイエスの隣ににいて、イエスの体に触れるほど近くにで、そのおことばを聞いたのです。イエスは、このヨハネに十字架上で、母マリヤの老後を依頼したのでした(ヨハネ19章26、27節)。
復活したイエスとも親しく語り合いました。ヨハネは、イエスが神であることとイエスが自分を愛してくださっていることを感じとったのでした。ヨハネはそのような時、自分の若気の過ちを思い出し、恥ずかしく思ったことでしょう。『互いに愛し合いましょう』
(1ヨハネ4章7節)と何度も繰り返した『愛の使徒ヨハネ』はイエスの愛を思い出すことによって形成されたのです。