悪はどんな悪でも避けなさい。(?テサロニケ5章20節)
人間は強いようで弱い存在です。その故にパウロは、『悪はどんな悪でも避けなさい』 と勧め、また『悪を憎み、善に親しみなさい』(ローマ12章9節)と諭しています。
ロトはソドムの人々の生活に染まり、繁栄を求めて身の破滅を招きました。
一、悪の生活に住む(創世13章11−13節
ロトは、豊かなヨルダンの低地を選んだが、そこに住む『ソドムの人々はよこしまな者で、主に対して非常な罪人であった』そのために、最初はよかったが、次第にさまざまの問題に悩まされるようになったことでしょう。
コリントのクリスチャンたちは、繁栄はしていたが世俗的な都市の人々の悪影響を受けた。そのために教会の中に多くの問題が生じ苦しんだのです。それは今日の日本や世界においても、同じです。多くのクリスチャンたちは、世俗的な社会の中で、いつの間にか信仰から離れ、霊的な生命と力を失っています。
成熟し自立した者であれば、世俗化した悪の世界に住んでいても、その影響を受けることなく、その社会を浄化することが出来るでしょう。しかし、多くの人々は、時流に押し流され、社会に飲み込まれて、ミイラ取りがミイラになってしまう。悪を避け、この世から聖別された者になることが大切です。
ソドムとゴモラが滅ぼされようとしていることを知った時、アブラハムは主なる神に『あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。
もしや、その町の中に50人の正しい者がいるかも知れません』(18章23、24節)彼は『そこには、右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか』(ヨナ4章11節)といってニネベを惜しまれたあわれみの神にようにソドムとゴモラを惜しんだのです『罪を憎んで人を憎まず』ということわざがあるが、彼は悪の世界に住む人々のために必死の執り成しをしたのです。
私たちも、悪の世界に住むことは避けながらも、その世界に住む人たちの救いのために執り成しのの祈りをささげ、彼らの救いのために努力をしなければなりません。
二、悪の世界は裁かれる(19章1ー29節)
ロトは、アブラハムと同じように、神の御使いを温かく迎え入れました(1ー3節)。
その意味では、彼はアブラハムと変わるところはありませんでした。しかし、その町に住んでいる者たちは違っていました。彼らは、家を取り囲み、ロトが温かく迎え入れた客を出せと叫び、ロトの身体を激しく押しつけて戸を破ろうとしました。
神は、ロトとその家族を外に出し、ソドムとゴモラを硫黄の火で焼き尽くされました。ロトの妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまいました。私たちは、悪の世界に対する神の裁きの現実を軽く考えてはなりません。また、悪の世界に引かれて振り返るような半端な信仰や生き方に陥らないよう、心しましょう。