『主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それはあなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』(?コリント8章9節)
一、歴史を動かす神(ルカ2章1−5節)
イエスがベツレヘムでお生まれになるとの預言(ミカ5章1節)は、ローマ皇帝アウグストが人口調査の命令を出すことによって成就しました。ヨセフとマリヤが登録のため一族の故郷ベツレヘムに向かったからです。
勿論アウグストは聖書の預言を知って人口調査を命じたわけではありません。彼は皇帝として、徴兵や徴税のためにじぶんのりょうどとたみをただしくはあくしておきたかっただけなのです。しかし神は、異邦人の王のこうした決定のすべてに働いて、ご自身のご計画が実現するように事を進められるのです。
この時の人口調査が何年であったか歴史的に確定するのは難しい。中央で布告が出されてからイスラエルという辺境の地で実行されるまで、多少の年月が必要であったと考えられます。ただ BC4年のヘロデ王の死の少し前の出来事であったことは間違いありません
二、イエスのいる場所(6、7節)
人口調査のための旅人で混雑しているベツレヘムで、ヨセフとマリヤが宿を取ることは難しかった産気づいたマリヤから生まれた赤ん坊は、粗末な布に包まれて飼い葉桶に寝かされるしかありませんでした。救い主のこの貧しい誕生の次第は、もちろん歴史的出来事をそのまま記したものです。しかし同時に、人となられた神がご自身の民に受け入れられない(ヨハネ1章11節)という、その後のイエスの十字架の死に至るまでの苦しみのご生涯を象徴する出来事として描かれていることは間違いありません。
三、心の王座をイエスに
イエスがこのように貧しく生まれたのは、人口調査でごった返しているベツレヘムの町にも、旅の夫婦が誰であるかを知らない宿屋の主人にも責任はありません。
しかし、今、私たちはこの出来事を知っています。知っている者として私たちが二千年前のベツレヘムにタイム・スリップしたら、どうしたでしょう。イエスを迎え入れることが出来たでしょうか。自分ののもてる最高のものをもってもてなすことができたでしょうか。
『宿屋には彼らのいる場所がなかった』(7節)。
では、私たちの心には救い主イエスのおられる場所があるでしょうか? 心の王座をイエスに明け渡すことができるでしょうか。『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたくだれでも私の声を聞いて戸をあけるなら、私は、彼のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3章20節)
* 私たちは、救い主を心にお迎えしているでしょうか。