私の父の家を商売の家としてはならない。(ヨハネ2章16節)
イエスは公生涯の間、ご自身のきよい生活態度、権威ある教え、力あるわざなどを通して、ご自分がどなたであるかを示されました。それらを総合すると、指し示していることはただ一つ、イエスが人となられた神ご自身である、という事実でした『宮きよめ』も、人々に、正しい礼拝の仕方を教えながらそうした行動をなさるイエスがどなたか、どのような権威を持つお方であるのかを示そうとなさったのです。
一、神殿で行われていたこと(ヨハネ2章13ー25節)
神殿周辺で犠牲の動物を売ったり、ローマの貨幣を神殿で使えるユダヤの貨幣 (神殿のシュケル) に両替したりするのは、参拝者の便利のために始まったことでしょう。しかし
、商売の機会につけ込んで不正なことをしてでも私腹を肥やそうと考える人が出てくるのは、いつの時代も同じです。神殿内での商売で、売上金の一部が便宜を図ったお礼として神殿管理者側に渡ってのいたであろうことも推測できます。こうして、神を礼拝するきよい場所である神殿は、不正と暴利がはびこる巣窟になっていました。
二、イエスの宮きよめ(ヨハネ2章15ー17節)
イエスはこのような状況に怒りを覚えられました。人間の罪ある姿に深い悲しみを抱かれたことでしょう。悲しみを含んだ正義の怒り、これがイエスの宮きよめの根底にあります。
イエスがなさった宮きよめは、暴力的とも見える直接的な行動でした。しかしそうされてもだれも正式に文句が言えない。きわめてまっとうなことでもあったのです。律法の教えに基づけば、神殿はイエスが主張し、なさったとおりに、きよい場所であるべきだったからです。ただ、『この人に、果たしてそうする権威があるのか』は問われなければならない問題でした。
三、復活の予告(ヨハネ2章18ー25節)
ユダヤ人は、イエスの行為自体より、それを行う権威や資格のあるなしを問題にしました。そうするしかなかったのです。『あなたに、こうしたことを行うにふさわしい資格があるかどうか証明してもらいたい』と問いかけるユダヤ人に、主イエスは、この『神殿』は壊されても三日日で建て直される、と断言なさいました。
その時、イエスのおことばを意味を理解する人はいませんでした。だれもがエルサレム神殿自体を指して言っている荒唐無稽なせりふと思っていたからです。しかしイエスは、地上に現れた神であられるイエスのお体という『神殿』は、壊されても(殺されても) 三日で建て直される (復活する) と予告なさったのです。
イエスの行為とおことばは、ご自身が神殿の真の所有者であり、そこで行われる礼拝の応諾・拒否の権限を持ち、必要なら強制執行をすることができるお方であること、要するにイエスが神ご自身であることを主張しています。それだけではなく、私たちの罪の贖いとしてやがて十字架で死に、三日目に復活なさることをも予告しているのです。
* 主題=主イエスは、神殿で商売をする者を追い出された。