*主題=人を救うために来られた主。イエスは安息日の主です。
目標=安息日の本当の意味
『人の子は、安息日の主です』 (ルカ6章5節)
一、安息日の主(ルカ6章1−5節)
ある安息日の日に、イエスの弟子たちが麦畑を通り、麦の穂を手でもんで食べました。
その様子を見ていた、当時の宗教的指導者であるパリサイ人は、チャンスとばかりに攻撃して言いました。『なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか』
パリサイ人が考えていたのは勿論、旧約聖書の十戒の四番目『安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ』(出20章8―10節)を読みましょう。この戒めは、安息日律法と呼ばれるものです。パリサイ人たちは、麦の穂を摘むことを刈り入れという労働、手で揉むことを脱穀という労働と考えて、安息日を破ったと避難したのです。
それに対して主イエスは『私は安息日の主である』とお答えになりました。パリサイ人
たちは、安息日に『してならないこと』ばかりに関心がありました。しかし、安息日律法の目的は、神を礼拝することです。礼拝するために、労働をしてはならないのです。そして、礼拝の中心は主イエスご自身がです。安息日律法は、 主イエスのための、主イエスが定めた律法なのです。
二、安息日の目的(ルカ6章6−11節)
別の安息日に、イエスは会堂で教えておられました。そこに、右手が動かなくなった人がいました。パリサイ人は、もしイエスがこの人の手を治してやるなら、安息日律法に違反したと訴えてやろうと、またもやチャンスをうかがっていました。イエスは、手の動かない人を真ん中に立たせて『手を伸ばしなさい』と命じました。そうすると、ては元どおりになったのです。
安息日律法が含まれる十戒は、前半は神に対する律法、後半が人に対する律法になっています。神を愛すること、人を愛することが十戒の内容です。この二つの中心的な戒めを破って安息日を守っても意味がありません。でも、イエスは『安息日はそんなに幻覚に守らなくてもよいのですよ』とおっしゃったのではありません。安息日の目的を忘れて、安息日にしてはいけないことばかり気にしたり、ただ形だけ安息日を守ったりしても、神は
お喜びにはなりません。日曜日に働いてはいけないということが安息日律法の目的ではありません。教会の牧師は、日曜日に一番忙しく働きますが、クリスチャンが安息日を喜んで守れるように一生懸命に働くのです。イエスが安息日に病気の人を治したのは、安息日を破っているのではなく、安息日を守っていたのです。9節を読んでください。
『日曜日の礼拝をきちんと、守ることは大切です。しかし、それを自慢したり、そうしない人を批難するなら、パリサイ人の心と同じになってしまうでしょう。