神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(?テモテ2章5節)
一、エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(マルコ 15章33−37節)
『エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ(わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか)』ということばほど誤解されやすい聖書の箇所はないかもしれません。キリストが神に見捨てられて、思わず叫んでしまった恥ずかしいことばだと考えてしまう人が少なくないからです。しかし逆に、このことばこそ、救いの重要な鍵を表していることばなのです。キリストの十字架の死は、単なる肉体的な死ではなく、神から完全に見捨てられるという、霊的な完全な死だったからです。最初の人間アダムとエバが善悪の知識の木の実を取って食べた時、死が人間に入ってきました (創世記 3章19節)。それは肉体の死だけではなく、神との交わりが崩れる霊的な死でもあったのです。だからこそ、罪のさばきは肉体的なものだけではなく、霊的なものである必要があるのです。イエスの叫びこそ、父なる神と子なる神の永遠の交わりが完全に絶たれる永遠のさばきとその苦しみを表しているのです。その悲しみは、つくられた世界が闇に包まれるということで表されました(33節)。
イエスのこのことばは、旧約聖書の詩篇22篇1節でもありました。続く5篇には『彼らはあなたに叫び…………』とあります。悲痛な叫びが喜びに変えられるという旧約聖書の預言の実現をこのキリストの叫びを通して知ることができるのです。キリストの十字架は、失敗ではなく、預言の成就であり、私たちに真の勝利を与えるものでした。
二、神との交わりの回復(37、38節)
『父よ。わが霊を御手にゆだねます』(ルカ23章46節)という最後の叫びをもってキリストが完全な裁きを受けられた時、神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けたと聖書は証言しています。その幕は、神殿の聖所と至聖所とを垂れ幕でした。大祭司が年に一度だけしか入ることが許されなかった至聖所への隔ての幕が裂けるということは、神の御手によって、キリストの贖いを信じる者が聖なる神がいらっしゃる場に大胆に近づくことができ、神ご自身と豊かな交わりをもつことができるということを意味します(ヘブル10章19、20節)。神と人仲介者として、キリストは十字架にかかられたのです(?テモテ2章5節)
三、十字架の目撃者(39−41節)
十字架の死を目撃したローマの百人隊長は『この方は真の神の子であった』と証言しています。異邦人が語ったことばですから『神の子』ということばは『偉大な人物』『正しい人』(ルカ23章47節)という意味に過ぎないかもしれません。けれども、その表現を通してキリストの神の子としての真実があかしされていることにも、主の導きを覚えることができます。
また、キリストに従う女性たちが、キリストの十字架を遠くから見守っていました。男性の弟子たちがいち早く逃げてしまった中で、彼女たちは勇気と愛ををもってキリストの十字架を見つめていたのです。当時さげすまれていた女性をも主は豊かに用いてくださるのです。