判決

 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは私たちがこの方にあって、神の義となるためです(?コリント5章21節)

一、イエスの無罪を主張したピラト(ルカ23章13−22節)
 歴史上の他の資料(ヨセフスのユダヤ戦争史等)で知られるピラトは、非常に残忍な人物で機会があればユダヤ人に自分の権力を見せつけようとしました。そのため流血の惨事をも辞さなかった片鱗が、ルカ13章1節に見られます。
 しかし、ここに描かれているピラトは、イエスの無罪を確信し、3度も(4節)も含めれば (4度も)そのことをはっきり、祭司長たちと指導者たちと民衆の前で主張しています(14節)(15節)(22節)。このピラトの主張は、イエスの無罪性への証言として、重要な意味を持っています。

二、それでもピラトは死刑判決を下した(23−25節)
 ピラトは、イエスが無罪であるとの主張を貫き通すことができませんでした。彼も権力者にありがちな、表面的には威張っていても内心は臆病で自己保身にきゅうきゅうとする人物に過ぎませんでした。ユダヤ人の指導者たちと堂々と渡り合うことができず、イエスの無罪を確信しながらも無条件の釈放を提案することをためらい『私は(むちで) 懲らしめたうえで釈放します』(16節) と言います。イエスをむち打つことで、イエスを訴える者たちをなだめることができると考えたのです。
 しかし、この提案は、逆に彼らをいきり立たたせました。むちで打つことは、十字架につける前刑でもあります (マルコ15章15節 参照 )。そこで彼らは『むち打つなら) 十字架につけろ』と彼らの要求を公然と持ち出しました (21節)。『十字架につけろ』と一斉に叫び続ける声に、ピラトは屈した。こうして『罪を知らない方』が、私たちの代わりに罪とされたのです。

三、バラバの代わりに十字架につくイエス(18−25節)
 過ぎ越しの祭に一人の囚人が釈放される習いがありました。ユダヤ人たちは、その一人に『都で起こった暴動と人殺しのかどで、牢にはいっていた』バラバを選び、イエスを釈放しょうとするピラトに『イエスを十字架につけろ。バラバを釈放しろと大声で叫びつづけた。その要求をピラトはのんだ(25節)。その結果、イエスはバラバ(のような私たち)の代わりに十字架につけられバラバは無条件で赦免されたのです。これこそ十字架の奥義であり、大いなる福音なのです。

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