主と同じ心で(ヨナ書)

  講師 東大阪エリムキリスト教会牧師 竹腰明人師

「主と同じ心で」 ヨナ書

喜びを分かち合うとその喜びは倍になり、悲しみを分かち合うとその悲しみは半減すると言われます。
主イエス様と喜びを分ち合い、また悲しみをも分かち合う者でありたいと思います。

今日は「主と同じ心で」というテーマです。
ヨナ書は全部で4章、1章ずつ、内容を確認していきましょう。

1神から逃げるヨナ

1:1 アミタイの子ヨナに、次のような主のことばがあった。
1:2 「立ってあの大きな都ニネベに行き、これに向かって叫べ。彼らの悪がわたしの前に上って来たからだ。」
1:3 しかし、ヨナは立って、主の御顔を避けてタルシシュへ逃れようとした。
ヨナは神様に、ニネベの町に行って宣教するように命令されましたが、それを拒否して、反対方向の今のスペインの方へと逃げて行きました。ヨナは神様が、悪名高き国、アッシリアの首都ニネベの人々を救う事を快く思わなかったのです。アッシリアはイスラエルの敵国であり、土地を獲得するために争っていたライバルです。ですから、彼らの救いと祝福を素直に喜べないのです。また彼ら、偶像を拝む異邦の民は、神の裁きを受けて滅びるべきだとも考えていたに違いありません。
船に乗って逃げて行くヨナを引き戻すために、神様は海に大嵐を起こされました。そして、船に乗る人々は、くじを引いて、嵐の原因がヨナにある事を突き止めました。
ヨナは人々に、自分は世界の造り主を礼拝する者であるが、神様の命令に背いて、逃げているために嵐が起こり、船が沈没しそうになっていることを伝えます。そして、自分を海に投げ込めば嵐が収まる事を伝えると、人々はやむなく、ヨナを海に投げ込みました。けれどもヨナの命は守れました。苦しみの中にも主の守りがあります。アドナイ・イルエ。主は備えの神です。主は大きな魚を備えておられ、ヨナを飲み込ませたのです。ヨナは三日三晩、魚のお腹の中で過ごす事になりました。

2,神に祈るヨナ

2:1 ヨナは魚の腹の中から、自分の神、主に祈った。
2:2 「苦しみの中から、私は主に叫びました。すると主は、私に答えてくださいました。よみの腹から私が叫び求めると、あなたは私の声を聞いてくださいました。
2:5 水は私を取り巻き、喉にまで至り、大いなる水が私を囲み、海草は頭に絡みつきました。
2:6・・・しかし、私の神、主よ。あなたは私のいのちを滅びの穴から引き上げてくださいました。
ヨナは言葉に表せないほどの苦しみの中に置かれました。 
詩 119:71 苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。
ヨナが苦しみの中で祈りますと、恵み深く哀れみ深い神様は、ヨナを滅びの穴から引き上げ、救い出し、
新しい心と決意を与え、ヨナを見捨てることなく用いてくださったのです。そして、イエス様が十字架の死から三日後に新しい体をもって復活したように、ヨナは三日目にお腹の中から吐き出され、陸地にあげられました。

3,神に従うヨナ

3:1 再びヨナに次のような主のことばがあった。
3:2 「立ってあの大きな都ニネベに行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。」
3:3 ヨナは、主のことばのとおりに、立ってニネベに行った。ニネベは、行き巡るのに三日かかるほどの非常に大きな都であった。
3:4 ヨナはその都に入って、まず一日分の道のりを歩き回って叫んだ。「あと四十日すると、ニネベは滅びる。」
3:5 すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者から低い者まで粗布をまとった。

生駒聖書学院の創設者、レオナルド・W・クート先生が横浜で教会を開拓していた1923年、関東大震災が起り、多くの人たちが亡くなり、家や家族を失い、混乱と失望の中に置かれていました。クート先生がこれから先の事を考えている時、主から「立ってあの大きな都ニネベ(当時の人口300万の大阪)に行き、わたしがあなたに伝える宣言をせよ。」との御言葉を受け取ったといいます。いつ大地震が起こり、滅んでしまうのか、わからない大阪の人たちの魂の救いのために生駒聖書学院を創立し、大阪市内の各地に、教会を建てあげて行かれました。

ローマ 11:29 神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。
ヨナの召命、使命も取り消される事がなく、再びニネベの町へと遣わされて行きました。そして、罪の巣窟、悪名高き都、ニネベでの宣教の一日目、「あと40日するとニネベは滅びる」と神の裁きを叫んで回りました。 ヨナはこの預言の言葉が成就し、40日後にニネベの町が滅ぼされる事を期待したと思います。
しかし、その日、彼らは罪を悔い改め、神を信じたのです。身分の者も身分の低い者たちも全て、町中の人たちが回心したのです。王様も罪を悔い改め、ヨナも見たことがないような、体験したことがないような一大リバイバル、信仰の大覚醒がアッシリアに起こったのです。

ハレルヤ! 素晴らしいです。 主は今もこの大きな都大阪、人口700万の民を一夜にして、見たこことも、聞いたことも、かつての日本の歴史になかった一大リバイバル、大覚醒を起こすことがおできになります。
けれども、人の心は自己中心で複雑な所があります。大阪全体でリバイバルが起こっても、東大阪エリムにリバイバルが起こらなかったら、複雑な気持ちになり素直に喜べない事でしょう。大阪700万の民が一夜にして救われたとしても、私のふるさと、私の姉の家族、弟の家族、親戚、友達がいる、愛知県にいつまでたってもリバイバルが起こらなかったら、神様に対して怒りを持つかもしれません。
預言者ヨナはイスラエルに生まれ育ち、イスラエルの人々のリバイバルを願っていた事に違いはありません。しかし、ヨナの時代、イスラエルの国は南北に分裂していましたが、アラムとの戦争に勝って、一時的に、国土が回復し、経済も豊かになりました。生活は良くなりましたが、依然としてイスラエルの民は、偶像礼拝を悔い改める事なく、天地の創造主に背を向けていたのです。 
ヨナは、敵国、偶像礼拝の町、悪名高き異邦の民、アッシリアの首都ニネベのリバイバルを、どのような気持ちで見つめていたのでしょうか?

4,神に怒るヨナ

4:1 ところが、このことはヨナを非常に不愉快にした。ヨナは怒って、
4:2 主に祈った。「ああ、主よ。私がまだ国にいたときに、このことを申し上げたではありませんか。それで、私は初めタルシシュへ逃れようとしたのです。あなたが情け深くあわれみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かで、わざわいを思い直される方であることを知っていたからです。
4:3 ですから、主よ、どうか今、私のいのちを取ってください。私は生きているより死んだほうがましです。」
ヨナが、ニネベの町で宣教したくなかった理由は、主が、情け深く、哀れみ深い神であり、怒るのに遅く、恵み豊かなお方である事、災いを、思い直される方である事を知っていたからです。
ニネベの町の人々が悔い改めて、その罪が全て許された事、その事がヨナを非常に不愉快にしたのです。
また、ヨナは預言者です。本当の預言者である事の証拠は、その預言が成就することです。しかし、ヨナが40日後にニネベの町が滅びるというう内容の預言は、成就しそうにもなかったのです。ヨナの預言者としての、自尊心、プライドも傷ついて、神様に対する怒りが、死ぬほどの怒りが こみ上げてきた事でしょう。
4:5 ヨナは都から出て、都の東の方に座った。そしてそこに自分で仮小屋を作り、都の中で何が起こるかを見極めようと、その陰のところに座った。
4:6 神である主は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上をおおうように生えさせ、それを彼の頭の上の陰にして、ヨナの不機嫌を直そうとされた。ヨナはこの唐胡麻を非常に喜んだ。
ヨナも主に愛されており、ヨナのニネベでの宣教を喜んでおられ、ニネベの町の人々の悔い改めも喜んでおられました。 しかし、ヨナは主と共に喜べなかったのです。ヨナは町を遠くから眺め、ニネベの町の住民たちがすぐに罪の生活に戻り、自分が語った預言通り40日目に、滅ぼされるかもしれないという期待をしていたかもしれません。とにかく、ヨナは不機嫌でした。そんな、ヨナの不機嫌を直そうとされて、主は 一本のとうごまの木を備えられて、日陰を造って休ませてくださいました。
4:7 しかし翌日の夜明けに、神は一匹の虫を備えられた。虫がその唐胡麻をかんだので、唐胡麻は枯れた。
4:8 太陽が昇ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は弱り果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」
4:9 すると神はヨナに言われた。「この唐胡麻のために、あなたは当然であるかのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」
主は、ヨナのために、色々なものを備えてくださいました。大きな魚を備え、とうごまの木を備え、一匹の虫を備え、焼け付く東風を備え、主の心、主の思いを教えてくださったのです。
4:10 主は言われた。「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。
4:11 ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」

何が本当に正しくて、何が罪であるのか分からずに生きている12万人以上の民が救われる事、それが主の願い、主の御心でした。
私はヨナの話を黙想していると、放蕩息子の話とヨナが重なりました。イスラエルの預言者ヨナが兄で、アッシリアのニネベの住民が放蕩息子の弟のように感じました。

(ルカ15:11?)
父親には、兄と弟の二人の息子がいました。弟の方は父の財産を持ち、どこか遠い国に行き、放蕩三昧を尽くして、無一文になり困り果てて、罪を悔い改め、父の元に返って来ました。 父は罪の欲望にまみれ、好き勝手に生き、放蕩三昧した弟をゆるし、喜んで受け入れ、抱きしめ、家に迎え入れ、大宴会を始めたのです。
兄が家に帰ってくると、父は弟を迎え入れて、今まで見たこともないほど喜んで、盛大な歓迎パーティーをしていたのです。兄は、そんな弟と父に怒りを燃やして、家の中に入ろうとしませんでした。それを知った父は、家から出てきて、兄をなだめたのです。
ルカ15:31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。
15:32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」
父は兄も弟も等しく愛しており、兄も、父と同じ心で 弟の回心を喜び、弟の救いを喜び祝ってほしかったのではないのでしょうか?

ローマ12:15 喜んでいる者たちとともに喜び、泣いている者たちとともに泣きなさい。
と聖書は語ります。イエス様は私たちが、他者の喜びを我が喜びとし、他者の悲しみを我が悲しみとして、共感して生きる事、互いに愛し合う事を望まれています。人の救いを我が喜びとし、人の滅びを我が悲しみとすることを望んでおられる事でしょう。主は、全ての人が悔い改めて、神様に立ち返る事を願われています。主イエス様のような心で、自分を迫害する者をも愛し、ゆるしていく。そのような大きな広い心で祝福していく者とされて生きましょう。

今週も主と心を一つにして、主と同じ心をもって歩んでいきましょう。

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