神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです。耳を傾けて、私の申し上げることを聞いてください。 (詩篇17篇6節)
一、主から死を告げられた。(第二列王 20章1節)
25歳でユダ王国をの王となったヒゼキヤは、神の前に悪行の限りを尽くしていた父親のアハズとは異なり、神に固く信頼し、心から従う人でした。『彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった』(18章5節)と記されるほどです。ヒゼキヤは神のことばに従い、偶像を次々に破壊し、荒れ果てていた主の宮をきれいにしました。また、異教の神への礼拝を強要してきた大国アッシリヤに対し、主が必ず勝たせてくださるとの信頼をもって、果敢に戦いを挑みました。ところが、アッシリヤの圧迫によって国が危機にあるただ中で、ヒゼキヤは重い病に倒れてしまったのです。床の中で気をもむヒゼキヤのもとにイザヤが訪れ、神のことばを伝えました『あなたの家を整理しなさい。あなたは死ぬ。治らない。』神のみこころに従い、神のためにすべてのことを行ってきたヒゼキヤにとって、この死の宣告はとうてい納得することのできないものでした。
二、主に訴えて祈った。(第二列王 20章2、3節)
ヒゼキヤはイザヤに背を向け、涙をもって神に訴えました。3節を見てください。この祈りの意味は、自分がこれだけ正しいことを行ってきたのだから病気を治していただくのが当然です。ということではありません。ヒゼキヤの切なる祈りは、偶像崇拝の国アッシリヤから主の民を守るという大切な任務を、なぜ全うさせてくださらないのですかというものでした。神のみこころを果たすという使命感をしっかりと持って生きていたヒゼキヤは、自分が今生き永らえることがみこころにかなうということをはっきりと確信して、大胆に病気いやしてくださるように祈ったのです。
三、主が祈りにこたえられた。(?列王20章4ー11節、?コリント12章7ー9節)
すると、イザヤがヒゼキヤの宮殿の中庭を出ないうちに、神は答えられました。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙を見た。見よ。わたしはあなたをいやす』(5節)ヒゼキヤは、あと15年生きることを許され、アッシリヤの手からエルサレムを守ってくださる約束を頂きました。神がなぜヒゼキヤに死に宣告をされたのか、また何故その直後に癒してくださったのか、その理由はしめされていません。。しかし確実なことは、神は素直に信頼して祈る者には必ずこたえてくださるということです。
実はパウロも、ヒゼキヤと同じように自分の病気を癒してくださるよう、神に熱心に祈り求めました(?コリント12章7−9節)を読みましょう。『3度も』願ったとは繰り返し祈ったという意味です。パウロはヒゼキヤと異なり、病気は癒やされませんでした。しかし、神は確かにその祈りを聞きパウロの心に、自分の弱さを通して神の力が完全に表れるという深い納得を与えられたのです。パウロは病気のままでいることにより、信仰がさらに深められ、神のためにより素晴らしい働きをすることができたのでした。ヒゼキヤ、そしてパウロのように信頼を持って心から祈るならば、どのような形であろうと、神は必ずその祈りに答え、最善をなしてくださるのです。