『人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです』 (ルカ19章10節)
For the Son of Man came to seek and to save what was lost." (Luke 19: 10)
一、イエスに会おうとするザアカイ(ルカ19章1ー4節)
イエスの一行は伝道旅行の途中エリコの来ました。エリコは死海の北側、ヨルダン川の
近辺にあり、昔から交通の要衝として栄えた町です。当然、税収入も多く、。取税人が活躍しました。取税人は、ユダヤ人でありながらローマ帝国の手先として働き、私腹を肥やすことも多かったので、人々からは嫌われていました。
背に低いザアカイがどのような経歴の持ち主か、定かではありません。富はあるが友人の少ない孤独なひとであったようです。うわさを聞いてイエスを見たいと願った時、誘い合って出かける友人もなく、道を開けてくれる者もなく、ひとり、いちじく桑の木に先回りして登るしか方法がありませんでした。
二、ザアカイの家に泊まるイエス(ルカ19章5−8節)
イエスは、ザアカイに目を留めて声をおかけになりました。『急いで降りて来なさい。きょう、あなたの家に泊まる』と。ザアカイはいわれたとおり「急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた」このやりとりが、この物語の中心です。
イエスを迎えたザアカイは、財産の半分を貧しい人々に提供すること、だまし取った物は四倍にして返すことを申し出ました。
この提案は、ザアカイの財産の多くが不正の取り立てによって得たものであろうことを
考えると、財産のほとんどを放棄する提案に等しいと判断して判断してよいでしょう。
しかし、イエスが『きょう、救いがこの家に来ました』と語られたのはザアカイが財産を放棄する決意をしたからではありません。人の心は自分の行ないによって贖えるほど小さくはありません。ザアカイの提案は『救いが来た』結果です。前述の『あなたの家に泊まる』というイエスの宣言とそれを喜んで受け入れたザアカイの態度に、神の一方的な恵みとそれに応じる信仰の決断が含まれているのです。神の憐れみにより、神の側からまず働きかけて下さらなければ、私たちの救いはありません。
三、失われた人を捜すイエス(ルカ19章9、10節)
このザアカイの物語は『だれが救われることができるでしょう』『人にはできないことが
神にはできる』という18章26、27の問答の実例として記されているエピソードです。『人の子』であられるイエスが『失われた人を捜して救うために来』てくださったことにより『神だけが、罪人である私たちを救うことができる』という宣言が成就したのです。
私たちは罪の中に失われ、死を宣告されています。自分の力では自分を救うことはできないし、人間どうしが互いに救い合うこともできません。神の独り子であられるイエスがおいでになり、罪のないご生涯を人として送り、それにもかかわらず十字架で罪の刑罰として死を私たちに代わって経験してくださったのです。この神の側からの救いの備えを、私たちが信仰によって受け入れ、罪を悔い改めたときにのみ、人は救われるのです。