サマリヤの女

わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません (ヨハネ4章14節)

Whoever drinks the water I give him will never thirst. (John 4 : 14 ) New International Version.

一、サマリヤの女の渇き(ヨハネ4章1−18節)

 イエスがサマリヤを通られたのは、サマリヤ人に対して偏見を持っておられ なかったことを示します。ここで一人の罪深い女性に出会うように聖霊の導きを受けておられたとも考えられます。このことによって、サマリヤ伝道の道が開か れたのです。 『時は6時頃とあるのはユダヤ的な時刻の呼び方で、現在の『昼の12時頃』です。この女は、人が働かない真昼の炎天下、人目を避けて水を汲みにきました。 彼女には、そうしなければならない理由がありました。

『どうしてサマリヤの女の私に……』という彼女の驚きには幾つかの意味があります。まず、ユダヤ人とサマリヤ人のつき合いの問題。ラビが女性に語りかける のは罪とさえ見なされていたこと、器を持っておられないイエスが水を求められたこと (11節。7節は言外に「あなたの器で」という意味が含まれています。ユダヤ人はサマリヤ人と同じ器を使いませんでした。
 イエスは彼女の心の渇 きに気づき、それは神の賜物である『生ける水』即ち『永遠のいのちの水』によってしか解決しないことを教えられましたが、彼女には理解できませんでした。 『わたしが与える水を飲む者はだれでも……』(14節) 即ちイエスを救い主と信じる者には、永遠のいのちが与えられるのです。

二、本当の礼拝(ヨハネ4章16ー26節)

  魂の渇きの原因が明るみに出されます。私生活が見透かされた女は自分の罪を認め、真の礼拝についての質問を始めました。サマリヤ人が礼拝するゲリジム山 か、ユダヤ人が礼拝するエルサレムか、自分はどちらで罪のためのいけにえをささげたらよいのかという真剣な問いかけです。しかし、イエスは、今や特定の場 所ではなく、どこででも『霊とまことによって礼拝』する時が来ていると教え(マラキ1章11節 参照)、彼女のメシヤ来臨待望の発言に対して『このわたしがそれです』と告げられました。

三、サマリヤの女のあかし(ヨハネ4章27−30、39ー42節) 

  女は水瓶をそこに置いたまま(人々を連れて来るため)、町に向かいました。人目を避けて生活していた女が、自分から出て行って『来て、見てください』とあ かしする者となったのです。人々は女の証言によってイエスを信じたのです。さらに多くの人々が『イエスの言葉によって』信じました。

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